天文元年(一五三二)一〇月四日、大友義鑑は豊前国へ侵入して佐田膳亮朝景の要害を攻め落とし、さらに宇佐郡妙見城を包囲した。一軍は下毛郡耶馬渓町福土(ふくつち)の万代平城(まだいらじょう)を攻め、下毛郡代野仲五郎ら下毛郡衆と一二月八日と翌正月八日に合戦した。これに対して、周防勢は豊前国へ渡海して、妙見岳麓において、天文元年一〇月三〇日、一一月九日、一一月一四日に豊後勢と衝突し、翌年正月一〇日豊後勢を撤退させた。
その勢いで周防勢は豊後国に侵入し、速見郡鹿越城(かこしじょう)(鹿鳴越城)を占領したが、天文三年二月二〇日には、大友勢は大内方佐田朝景宅所を攻撃してきた。