国人衆も諸役を担っている。応永三〇年(一四二三)四月の「宇佐宮神事諸役支配注文」には、津隈荘弁分は宇佐宮放生会に際して人手を一〇人も出している。
天文一三年(一五四四)八月九日、大内氏奉行人龍崎隆輔(たつざきたかすけ)、相良武任(さがらたけとう)、杉宗長(すぎむねなが)の連名にて安東肥後守興俊へ宛て、宇佐宮放生会の神事奉行(しんじぶぎょう)を上毛郡の広津松市丸(ひろつまついちまる)とともに命じ、本人が参宮して勤務せよと念を押している。これに対し興俊は、自分は久しく病気を患っていて、出雲の尼子退治にも名代を送っているほどであるので、代理人でよいか、山口へ伺いを立てているので、誓約書の提出が遅れている、と八月二五日に宇佐宮専使に報告している。安東興俊は、神事奉行として仲津郡より反銭四〇貫文余を微収し、諸神事に携わっている。