大内政弘の頃から、大内氏の氏神であり、氏寺ある周防国山口の氷上山興隆寺(ひかみさんこうりゅうじ)の修二月会に大内氏分国の各郡へ順番に脇頭役(わきかしらやく)や三頭役(さんかしらやく)を割り当てた。家臣のなかで財力のある者には大頭役(おおかしらやく)を鬮(くじ)によって勤めさせている。豊前国関係では、永正(えいしょう)一〇年(一五一三)に城井左馬助弘堯(きいさうまのすけひろたか)、大永(だいえい)五年(一五二五)に山田興成(おきなり)、延徳四年(一四九二)に千手(せんじゅ)治部少輔、明応二年(一四九三)に山田安芸守隆朝、明応三年(一四九四)に城井越前守俊明が引き当てている。
仲津郡は脇頭役を寛正二年(一四六一)、永正一六年(一五一九)と天文四年(一五三五)の三度務め、そのつど二〇貫文を負担している。
宇佐宮祭事の関係からであろうか、京都郡、築城郡、上毛郡、宇佐郡は三頭役しか勤めていない。宇佐宮の祭事との調整を計ったのであろう。