義隆の自害

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 天文二〇年(一五五一)八月二八日、大内義隆(おおうちよしたか)の公家的な政策に強い不満をもつ重臣陶隆房(晴賢)(すえたかふさ(はるかた))に大内家当主の地位をおわれた大内義隆は、長門国深川太寧寺(たいねいじ)まで逃れたが、九月一日には自刃した。この時、豊前国守護代であった杉重矩は陶隆房に従っている。
 隆房は、自らは跡を継ぐことをせずに、大内家とゆかりのある人物で豊後国守護大友義鎮(おおともよししげ)の弟で大内義隆の姉の子である大友晴英(おおともはるひで)を大内家の跡継ぎに迎えた。大友晴英は大内義長(おおうちよしなが)と改名し、大内家の家督を継いだ。義長の付家老として橋爪鑑実(はしづめあきざね)らが大内家に入った。高橋鑑種(たかはしあきたね)も身近に仕えていた。隆房も晴賢と改名した。陶晴賢は大内の分国に強大な力を振るうが、主人殺しの誹りに苦しめられた。これを豊前国守護代であった杉重矩が唆したことを理由に、彼を切腹に追い込んだ。こうした乱れに乗じて安芸国の国人衆をまとめた毛利元就に人心が集まりはじめた。