毛利元就(もうりもとなり)は毛利弘元(ひろもと)の二男として明応六年(一四九七)に生まれ、幼名を松寿丸(しょうじゅまる)と言う。母は福原広俊(ふくはらひろとし)の娘である。元服して元就と名乗ったのは永正(えいしょう)八年(一五一一)、一五歳の時である。父弘元は大内政弘から一字をもらい受けた。祖父豊元は山名是豊の一字をもらっており、曾祖父熙元も山名時熙の一字をもらったのとは明らかに異なり、この頃から大内氏の傘下に組み込まれたものと考えられる。
永正一三年(一五一六)に兄興元(おきもと)の死去に伴い興元の遺児幸松丸の後見に、元就は家臣の高橋久光とともに推された。
永正一四年(一五一七)、佐東銀山(かなやま)城主武田元繁との戦いで、元就は機先を制して武田元繁(たけだもとしげ)を破って版図をひろげた。倒した武田氏が安芸国の元守護家であったこともあり、にわかに名声を博するところとなった。