その後、重臣たちにおされて毛利家の家督(かとく)を継いだ元就は、天文一五年(一五四六)には家督を長男隆元に譲った。元就五〇歳の時である。隠居という立場から、毛利家の発展に貢献しようと考えたのであろう。依然として実権は元就の手にあった。次に着手したのは安芸国衆の中での地位の確立であった。元就は一族同様の忠実な同盟者安芸国高田郡五竜城宍戸高家のもとに息女を嫁がせ、また、二男元春に広島市三入庄熊谷直美の息女を娶らせるなど、姻戚関係(いんせきかんけい)を張り巡らせていった。さらに、元就は、二男元春の吉川家の家督相続を、三男隆景の小早川家の家督相続を実現させた。両家とも安芸の有力国衆である。
「毛利両川」体制を固めた天文一九年(一五五〇)に井上衆誅閥事件(いのうえしゅうちゅうばつじけん)が起きる。この事件は、在地を基盤として独立性を保とうとする有力国人(井上元兼(いのうえもとかね))を討ち、安芸の国人に対する絶対的支配権の確立を目したものである。