厳島の合戦

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 弘治(こうじ)元年(一五五五)に入って、陶晴賢を主君の仇と狙う毛利元就と陶晴賢の対立は、一段と激しくなった。元就は決戦を覚悟したが、陶勢は豊前国、筑前国、周防国、長門国の人数二万か一万八〇〇〇はかたく、それに対し毛利勢は総勢三〇〇〇ほどである。平地での合戦では到底勝ち目がないと考えた元就は、陶軍を安芸国(広島県)厳島(いつくしま)に渡海させて、そこで勝負を決するべく策略を巡らせた。
 弘治元年一一月一日、策にはまり戦いに敗れた陶晴賢は、厳島で自害した。