秋月文種の焼き討ち

93 ~ 93 / 898ページ
 大内義長のこうした努力もむなしく、国一揆の張本人と目された秋月文種は、弘治二年(一五五六)三月田川郡を侵し、さらに、京都郡久保、稗田、入覚寺、高来の集落に火を放ち、乱暴を繰り返した(佐田文書)。小倉津辺でも秋月に加勢して牢人衆(ろうにんしゅう)や郷人が騒乱を起こしている。弘治二年、大内方馬ヶ岳城督神代(こうしろ)余三兵衛尉が守る馬ヶ岳城はほとんど抵抗もなく筑前国秋月の手に落ちた。城督(じょうとく)とは大名の所有する御城の管理者で、周辺の武士に対する軍司令官であり、時に行政官である。