大内義長の存命中は豊前進出を差し控えていた豊後国の大友義鎮は、大内氏の滅亡(めつぼう)を機会に筑前国秋月氏の影響が強まりつつある豊前国への侵攻を本格化させた。元就が秋月文種に肩入れすることをきらっていた大友義鎮は、弘治三年(一五五七)五月一四日付で毛利元就に書状を送り、豊筑への干渉(かんしょう)を止めるように要求した。一方で府内を出発した豊後勢は、大分県(豊前国)宇佐郡龍王城(りゅうおうじょう)を包囲した。龍王城を守っていた大内方の城井三郎房統は大友氏に城を明け渡した。大友方は龍王城を本陣として、豊前国東部の諸所を攻めた。宇佐郡の佐田隆居ら三六人衆と呼ばれた国人たちは大友氏の軍門に下り、佐伯惟教(さえきこれのり)、志賀親教(しがちかのり)を大将とした豊後勢は弘治三年一〇月六日に下毛郡長岩城(しもげぐんながいわじょう)の野仲重兼(のなかしげかね)を攻め、降伏させた。
大友氏は長年の懸案であった豊前国進出の第一歩を踏み出した。