山田安芸守宅所、同山田城を攻める

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 大友義鎮は、長門国長府で大内義長(おおうちよしなが)が自害した弘治三年六月二〇日には、豊前国(福岡県)上毛郡にことごとく放火し、山田安芸守隆朝の宅所(館)を攻落し、翌二一日は山田城(詰の城)を攻落した。この戦いで秣(まぐさ)刑部は、山田安芸守隆朝の子息千代丸一一歳の頸を取って田原親宏(たはらちかひろ)に差し出した。山田安芸守隆朝本人は行方が分からなくなり、上毛郡の内、山田安芸守隆朝に肩入れした者の頸八〇〇あまりが取られ、上毛郡の四分の一の男女を失った。六月二七日には仲八屋備前守英信(ひでのぶ)の頸も田原親宏のもとに差し出された。
 弘治四年(一五五八)には、山田安芸守隆朝の所領であった京都郡稲光(いなみつ)の四〇町が義鎮から志賀親度に与えられている。