田原親宏率いる豊後勢は筑前国加摩(かま)郡千手、馬見(うまみ)(嘉穂町)を攻め、さらに、秋月中務文種の立て籠もる古処山城(こしょさんじょう)を加摩郡側から攻撃した。七月七日の総攻撃で古処山城は落城、中務文種は自害した。吉弘鑑理(あきさと)も味方に八〇人の負傷者を出している。この出陣の理由について『犀川町誌』は、前年の大友の検使(けんし)の入部に反発して挙兵する者があったからであろうとしている。これにも秋月を支援する毛利元就の影が見え隠れしている。三人の子どもは姿を隠した。のちに中国の毛利元就のもとに匿(かくま)われて成長したことがわかった。弘治三年の九月には豊前国の大半は大友義鎮の支配するところとなった。