秋月文種亡き後、豊筑は平定され、旧大内家の給地は大友家臣たちに預け置かれた。それも一時のことで、知行地を失った豊筑の国人は、毛利氏の調略によって大友氏に反旗を掲げた。将軍足利義輝によって豊前国守護に任ぜられた大友義鎮は、毛利勢が守備する門司区(企救郡)門司城、小倉南区(企救郡)長野城の長野氏を、犀川町大村(仲津郡)西郷城(不動ヶ嶽城(ふどうがだけじょう))の西郷隆頼(さいごうたかより)を討つべく進撃を開始した。
反大友の旗を掲げて挙兵した西郷遠江守隆頼を攻めた佐田弾正隆居の分補手負注文(ぶんとりておいちゅうもん)によると、八月二二日、西郷遠江守要害(西郷城)の攻め合いで、佐田方は隆頼の弟西郷弥三、田平源五郎ら四頸を取ったが、佐田氏も被官や従僕一八人が鑓傷、矢傷、石矢、石弓などで負傷しており、激戦であったことが偲ばれる。