毛利元就と毛利隆元から西郷隆頼へ宛てた書状に、永禄二年(一五五九)九月二六日の門司城退去に対するねぎらいと豊後勢との合戦を計画しているから、豊前国の国人たちへの調略が必要である。なお、山田安芸守にそのことを伝えるようにとも記されている。山田安芸守とは、弘治三年(一五五七)に大友義鎮に攻められ大敗を期し行方不明となっていた山田隆朝であり、毛利氏の庇護を受けていたことが分かる。
毛利元就は、永禄二年一二月二六日、大内家の奉行衆であった仁保左衛門大夫隆慰(にほさえもんたいふたかやす)に、関門海峡を渡って門司城を奪還(だっかん)させ、門司城督に任命し併せて規矩郡の給人領、寺社領などをとりまとめる代官を命じている。