豊前国一帯は大友の勢力範囲となり、一応の安定がたもたれた天正三年(一五七五)に、島津家久は薩摩国串木野を出発して上京した。その時の日記(「中書家久公上京日記」)に、道筋の豊前国仲津郡などについて次のように記している。
三月四日、彦山に参拝しようとしていたところ、使いの僧が馬二疋を差し向けられ、政所(まんどころ)(社務所)より道まで酒を持って山伏五、六人が迎えに来て、政所まで案内され、風呂などいろいろともてなされた。
五日、彦山を参拝したところ、行者堂(ぎょうじゃどう)に峰入りの衆が勤めをしていた。
六日、政所より太刀などお祝い物を拝領(はいりょう)し、出発しようとしたところ、また、馬二疋をつけて帆柱という村まで送ってくれた。その夜は紀伊(犀川町木井馬場)の内垣という村に泊まった。宿の主は常心という禅門の人である。
七日は紀伊(城井)殿という人の隠居所をちょっと見た。それより行くと左手に馬ヶ岳という長野殿の城がある。伊摩井町(行橋市今井)では矢野次郎五郎という者の所へ一泊。夜に入って辻雅楽助という人が宴席を用意してくれた。慶雲という禅門の人が集まって話しに来た。
八日には蓑島を見た。
九日正午に伊摩井(行橋市今井)を出発し、午後二時頃に苅田の町を通り過ぎ、曽根という村についた。
彦山政所の歓待振りや今井での宴席での禅門の人が集まって話しに来たことなどの表現のおくに島津家久(しまづいえひさ)の豊前国訪問は単なる通りすがりとは思えない内容である。