天正四年(一五七六)一一月一〇日付で毛利輝元から柳沢元政(やなぎさわもとまさ)へ出した書状には、「昨年、貴殿の薩摩へ下向がうまく行ったことによって、豊後と薩摩の対立が戦争に発展することになった。豊筑の毛利方の武士との関係もあるので、薩摩の動きに合わせて、こちらも九州へ軍勢を動かすつもりである」と述べている。毛利氏の九州進出への強い意志がうかがえるとともに、大友宗麟と織田信長の連合に対抗して毛利輝元と島津義久の連合が形成されるなかで、豊筑の国人領主で毛利と島津に心を寄せながら日向に出陣させられた武士が多かったことも、耳川合戦で大友勢の敗北につながった一因であることが読み取れる。