天正八年(一五八〇)四月に城井鎮房、仲八屋統重らが挙兵し、上毛郡を東下し友枝表に侵入している。野仲鎮兼、内尾氏らは防戦し、これを撃退した(『鎮西宇都宮氏の歴史』)。
下毛郡では野仲鎮兼が旧領地回復を図り、山国郷から出て、田原紹忍指揮下にある中津市加来の大畑城、三光村福島城、田島崎城を包囲し、数十回も合戦を繰り返した。
宇佐郡では、大友氏の寺社奉行奈多鑑基・鎮基(なたあきもと・しげもと)親子と宇佐大宮司他の社官衆との対立が深刻となった。宇佐宮側の宮成氏、益永氏、時枝氏、橋津(はしづ)氏らは毛利氏や秋月氏と連絡を取って反大友の姿勢をとるようになった。