これらに対して、田原宗亀の調略に応じて、杉重良は仲津郡蓑島(行橋市)へ渡海したと考えられる(『犀川町誌』)。
杉重良が、大友方田原宗亀に加担したことは、天正七年(一五七九)正月八日付で毛利輝元から杉松千代(重良)へ出された書状によって知ることができる。重良は豊前国守護代杉伯耆守重輔(すぎほうきのかみしげすけ)の子である。重輔は内藤隆世(ないとうたかよ)と対立し、弘治二年隆世に襲撃(しゅうげき)され自刃した。この時、重良は松千代と称し四歳であった。永禄六年、門司城合戦の時、杉因幡守隆哉、天野隆重(あまのたかしげ)等とともに松山城を守り、また、立花城合戦の頃も松山城に立て籠もり、これを守った(杉文書)。
天正七年三月七日付で大友宗麟から田原親宏へ送られた書状には、「杉重良は田原惣領家の宗亀に通じて蓑島に立て籠もった。二月二八日には仲津郡大橋(行橋市)の合戦で勝利を収めた。ところが、高橋鑑種、長野助守の連合軍に蓑島を攻められ、毎日防戦して敵数百人を討ち果たしたものの、味方(宗亀家中)も多大な損害を被った。蓑島のことは、合戦のことなので仕方のないことであるが、秋月のこと、宗亀は魂を入れてこれにあたるべきである。その理由は、秋月種実が無思慮深重であっても宗亀が気遣いすることによって、秋月種実の内儀としては歎息(たんそく)であろう。調略以下も成就するのは間違いない。直ちに取り掛かること」と書き記している。
大友宗麟の書状の背景には、秋月種実は宗亀の婿であり、宗亀の養子田原親貫は秋月種実の弟長野種信(ながのたねのぶ)の子であるという関係が考慮されている。種実を諌め、大友家と和平を保つよう説得してもらいたい気持ちが現れている(『犀川町誌』)。
高橋鑑種はかねてより療養中であり、天正七年四月二四日に死去したといわれていることを考慮すると、蓑島での合戦で高橋勢の指揮を執ったのは秋月から養子に入った元種であった、とみるべきである。