「長野助守覚書」

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 天正七年(一五七九)九月二八日付の「長野助守覚書」は、当時の豊前国の情勢をよく示している。この覚書は長野三河守助守が毛利方使者へ要望を箇条書きにして申し伝えたものであろうか。
 この頃城井鎮房(きいしげふさ)は毛利方となっていたこと、毛利は助守に仲津郡を与えたことに対する礼、香春両岳(一岳、二岳)城が大友方に占領されたこと、豊筑の情勢を考えて松山城の修復を延期したこと、助守の子五郎丸の取り扱いについて願い出て、門司城の人質は堪忍(かんにん)してほしいこと、大友氏から与えられた京都郡、仲津郡の安堵を希望することが記されている。
 内容の大半は長野氏の基盤である京都郡、仲津郡を中心とした事柄である点から考えて、最初に書かれた城井鎮房とは宇都宮鎮房のことで、彼はこの頃仲津郡木井馬場を本貫としていたと考えられる。
 天正八年(一五八〇)九月八日に、城井(鎮房)、長野(助守)らの悪党は秋月方として宇佐郡の赤尾三河入道(あかおみかわにゅうどう)の宅所(たくしょ)へ取り掛かり、村中に放火し切寄(きりよせ)(光岡城)に詰め寄っている(佐田文書)。