筑前国、豊前国の支配権をめぐって毛利氏と覇を競ってきた大友氏は、中国地方へ勢力圏を広げてきた織田信長と手を結んで毛利氏を挟み撃ちにする策をとった。これに対した毛利氏は、龍造寺氏や島津氏と手を結んで大友氏を圧迫したことは先に述べたとおりである。
天正一四年(一五八六)、大友宗麟・義統父子は薩摩国島津勢の圧迫にたえきれず、豊臣秀吉に救援を求めた。大友宗麟の救援要請は、統一政権の確立を目指していた秀吉にとって九州介入を正当化できる格好の機会となった。天正一四年一〇月、豊臣政権の先遣隊である黒田官兵衛、小早川隆景らが九州に派遣された。天正一〇年、本能寺(ほんのうじ)の変直後、羽柴秀吉は毛利氏と和睦し、毛利氏を従属させた。秀吉は毛利輝元に大友氏との和睦(わぼく)を命じた。これで多年大友に反旗を掲げていた筑前国の秋月種実、豊前国の高橋元種らは島津氏に接近し、島津義久の北上を催促し、綿密な連絡をとり大友氏を牽制していた。
豊臣秀吉は、天正一四年四月一〇日に毛利輝元率いる中国勢に九州出陣を命じた。黒田官兵衛(くろだかんべえ)と安国寺恵瓊を検使として先発させた(『犀川町誌』)。