この頃から戦線は、門司城から東九州経由で薩摩への通路確保のため、豊前国の治安の平定に移った。
秀吉は合戦に先立って、敵を包囲し退却路に当たる道筋に城を造って敵の城を包囲し攻めよ、攻めるにあたって、兵糧攻めか、堀を埋めるか、水攻めか、水手を留めるか、また力攻めがよい城かをよく見極めて攻めるよう細かく指示をしている。
天正一四年(一五八六)九月二八日までには、毛利輝元、吉川元春(きっかわもとはる)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)は関戸(門司港)に着陣したと思われる。
毛利氏に支援を得ていた国人らは、人質を出して帰順(きじゅん)を申し出た。馬ヶ岳城の城主長野三郎左衛門は、小早川隆景を頼って帰順の意志を明確にしたのをはじめ、上毛郡山田、同郡仲八屋刑部、同郡広津鎮種(しげたね)、宇佐郡時枝武蔵守、宮成(みやなり)吉右衛門らが降伏してきた。豊臣秀吉は一〇月一〇日に検使黒田官兵衛、安国寺らの報告を受けて知行安堵の書状を彼らに与えた。
毛利輝元は、一〇月三日渡海して小倉城を包囲したところ、高橋方小倉城代は降伏を条件に命乞いをしてきた。