黒田孝高、松山城に入る

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 その後、黒田孝高(官兵衛、勘解由)は小倉から三里半の苅田の松山城に陣を移した。小早川吉川両軍も苅田に陣を取った。一〇月中旬には、毛利輝元は田川郡岩石城(がんじゃくじょう)や築城郡城井谷の一揆原(櫟木原)(いちきはる)に派兵している。これに対して豊臣秀吉は、櫟木原(いちきはる)に手間をかけ過ぎないように注意している。
 一〇月中旬頃、黒田孝高、毛利輝元は京都郡馬ヶ岳城に軍を進め、さらに、苅田から三里半ほどの築城郡宇留津城(うるづじょう)(椎田町)を一一月七日に攻め落とした。宇留津城では、田川郡香春岳城に本拠をおく高橋元種配下の賀来新外記以下千余名を切り、その他に多数の男女を磔(はりつけ)にした。
 一一月一五日には高橋元種方が守る障子ヶ岳城を攻め落とし、一一月二四日には香春岳城を包囲した。香春岳城に立て籠もった高橋元種も降伏を申し出た。豊臣秀吉は、早々に豊前国のことが一段落したのは毛利輝元の手柄である、筑前方面のこともよろしく頼む、と褒め伝えている。