市内東南部の稲童地区(一章図1参照)は、稲童名と呼ばれる所領に編成されていた。名は荘園や郷の内部に、年貢(ねんぐ)・公事(くじ)を徴収する単位として設置される場合もあったが、稲童名(いなどうみょう)は上位にそうした荘園や郷などが知られておらず、規模から見ても独立して国衙(こくが)に直属する名であったと見られる。西に隣接する徳永(とくなが)も、豊前国内に散在する国衙領の名、得永名の故地の一つと推定される。全国的にも国府(こくふ)周辺にはこうした国衙領と呼ばれる所領が集まっていることが多く、豊前においても同様であったことが分かる。多くの古墳が残る稲童には、古くから有力な在地首長(ざいちしゅちょう)がいて相当な政治力を持っていたと見られる。古代以来の要地としての性格は、中世になっても変わらず維持されたのである。
稲童名に関する史料の多くは北九州市の門司に鎮座する和布刈(めかり)神社に伝えられた。これは稲童名が南北朝時代の終わりに同神社に寄進され、同神社が領主になったことに求められる。いま同社所蔵文書の一つ「豊前国仲北郷稲童名相伝系図(ぶぜんのくになかきたごういなどうみょうそうでんけいず)」(写真1、以下「相伝系図」と略す。)からその歴史を見ていくことにしよう。史料名に見えるように、中世において稲童名は仲津郡を東西南北に分割して生み出された仲北郷と呼ばれる単位の内部にあったことがわかる。また系図の記載からは、一三世紀初頭以降の稲童名における領主の変遷を追うことができる。
相伝系図の冒頭には、「本主(ほんしゅ)」(元来の持ち主)として「高瀬太郎種忠(たかせたろうたねただ)」という人物が掲げられている。さらに彼が承元三年(一二〇九)一二月二七日付の下文(くだしふみ)を給与されて、稲童名の領有を保証されたと注記されている。ここに見える下文とは鎌倉将軍が発給する文書の一形式であり、おそらく種忠は鎌倉幕府に従い、稲童名の領有を保証された御家人(ごけにん)であったと見てよいだろう。その名字から種忠は稲童の北に位置する高瀬(たかせ)に本拠を構えていたと推定される。高瀬宮山(みややま)の勝手(かって)神社の伝承や稲童宮山の安浦(やすうら)神社の由緒によれば、彼は稲童の北にある覗山(のぞきやま)城の城主であったといい、これら神社の創建者として長く記憶される人物であった(『京都郡誌』一八四頁、但し伝承では種忠を一〇世紀の人物としている)。また名乗りに「種」という字のあることは、彼が院政期(いんせいき)に大宰府(だざいふ)を拠点として九州各地に勢力を伸ばした大蔵(おおくら)一族であったことを示している。実際、豊前市の大蔵正幸氏所蔵「大蔵系図」には、この種忠が見え、高瀬との注記がなされているのである(『豊前市史 文書資料』)。平安末期の豊前国では、大蔵一族の板井(いたい)氏が国衙を掌握し、院をはじめ中央の権門と結びつき広大な荘園をつくり出していたことが知られている(「宇佐神領大鏡(うさじんりょうおおかがみ)」・「元暦文治之記(げんりゃくぶんじのき)」)。板井氏は平氏と強く結びついていたため、平氏滅亡とともに勢力を失ってしまったが、こうしたなか高瀬氏は巧みに歴史の荒波を凌いで、鎌倉時代を迎えたと考えられる。