鎌倉幕府の滅亡とそれに続く内乱の中で、武藤吉田氏もまた時代の波に翻弄されていった。同氏の本拠地吉田村に鎮座する綿都美(わたつみ)神社の社家平野(ひらの)家には、多数の文書が残されているが、そのうちに鎌倉最末期に同氏の惣領であった武藤頼村(よりむら)(法名崇観(すうかん))の認めた文書がある。元弘四年(一三三四)年正月に頼村はある「宿願」のために、吉田村内の所領及び稲童内の城追暗山・長迫の計一町を、綿都美神社へと寄進した(同年正月二五日「武藤崇観寄進状」平野文書、写真2)。彼が抱いていた宿願とは、鎌倉幕府の再興、すなわち北条氏勢力の再興であった。それは武藤吉田氏が鎌倉末期に北条氏の被官(ひかん)となっていたことに起因する。元寇(げんこう)ののち豊前守護は少弐(武藤)氏から北条氏へと替わっており、そうした背景から北条氏との結びつきを深めていたのである。頼村は法名を崇観とするが、「崇」の字は北条氏の惣領(得宗)(そうりょう(とくそう))が法号に用いるものであり、これに準じて当時の北条一族およびその有力被官も、しばしばこの一字を自らの法名に戴いている。こうした点からも、武藤吉田氏の置かれた立場が推測されるのである。
頼村が所領を寄進したまさにその月、豊前国最後の守護であった糸田貞義(いとださだよし)は兄規矩高政(きくたかまさ)とともに、建武新政権に反旗を翻している。彼らは鎮西探題(ちんぜいたんだい)を歴任した北条金沢(かねさわ)氏の一族で、名字の糸田は田川郡の糸田荘に、規矩は規矩郡にそれぞれ由来している。ここから分かるように、彼ら兄弟は豊前北部に強固な勢力を築いていたのである。頼村の「宿願」とはまさにこの叛乱の成功であったが、その願いもあえなく共に滅亡の道を辿っていった。
しかし武藤吉田氏の一族全てが惣領頼村に従ったわけではなく、頼村の弟頼景(よりかげ)およびその子景村(かげむら)は、叛乱を鎮圧する側に廻っていた。こうした動きは、頼景・景村の家に伝わったと思われる三通の文書と系図から、そのおおよそを知ることができる。これらの史料は、いつのころか豊前より流出し、江戸時代には土佐国にあったようで、同国で編まれた文書集『蠹簡集残編(とかんしゅうざんぺん)』に収録されている。また経緯は不明ながら大阪府川西市の多田(ただ)神社にもこれらの文書の写が伝来している(『蠹簡集残編』に収録されたと思われる文書の原本は、昭和四五年に第二回西部古書即売会に出品されているが、その後の所在は不明である。多田(ただ)神社の文書写は、東京大学史料編纂所架蔵の写真帳によると近世に作成されたと思われ、どのような経緯で原本より書写されたのかは明らかでない)。それによると頼景・景村親子は、糸田・規矩の乱で惣領と袂を分かって追討に活躍し、肥後国堅志田(かたしだ)郷(現熊本県中央町)を勲功の賞として与えられた。しかし堅志田の支配は、現地を押さえる有力者阿蘇(あそ)氏の妨害にあって上手くゆかず、頼景は惣領の没落によって没収されていた本領吉田村の返付を求めている(建武二年閏一〇月日「武藤宗智(そうち)(頼景)言上状(ごんじょうじょう)」)。しかしこの要求は認められた形跡がなく、頼景は在京したまま建武二年一一月には死去してしまった(「相伝系図」)。
右のような混乱が続いたにもかかわらず、「相伝系図」を見るかぎり、武藤吉田氏は稲童(いなどう)を確保しつづけることができた。これは稲童が惣領頼村のもとになく、一期分として尼西如に相編されていたことによるのであろう。彼女は、頼宗の子で、頼村や頼景と兄弟であったと推定されるが、「相伝系図」の記載を詳しく読むと、後に頼景息へと稲童名を譲ったことがわかる。一期分とは譲与を受けた本人が亡くなると惣領へ返却される所領であったから、稲童名は新たに惣領となった頼景の子へと譲渡されたと見てよい。この頼景の子が誰なのか実名は明らかではない。本来であれば、この譲与は頼景の嫡子と見られる景村に対して行われるべきものだったろう。しかし景村は南北朝の争乱のなかで程なく戦死しており、それは叶わなかった。「相伝系図」の景村には「於有智山(うちやま)、筑後入道妙恵(ちくごにゅうどうみょうえ)同時打死」という注記がなされている。筑後入道妙恵とは、武藤嫡流に当たる少弐氏の当主貞経(さだつね)のことで、彼は建武三年(一三三六)二月に、大宰府の有智山城において菊池武敏(きくちたけとし)率いる南朝勢により滅ぼされている。景村はこの有智山城にあって戦死したのである。景村の死去によって尼西如は稲童名を頼景の別の子息へと譲与せざるを得なかったのだろう。その後、竹熊丸(たけくままる)なるものが頼景子から稲童名ほかの譲与を受けたと「相伝系図」には見えている。しかし不幸は続き、竹熊丸もまた至徳年中に出陣して死に、ここに武藤吉田氏の家系は断絶したのである。