和布刈神社領へ

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 竹熊丸の死去と相前後して、稲童名は和布刈(めかり)神社の所領となった。同社に残る至徳元年(一三八四)八月七日付「大内氏奉行人連署奉書(おおうちしぶぎょうにんれんしょほうしょ)」には、将軍足利義満(あしかがよしみつ)の命により稲童名を寄進することにしたが、現在知行している人物が出陣中なので、戦(いくさ)が終わり次第に引き渡すと見えている。この文書に見える知行者が竹熊丸であるとすれば、彼はついに戻ることなく武藤吉田氏は断絶し、稲童名は和布刈神社に帰したことになる。また稲童のほか彼らが維持してきた吉田村内の田中名、筑前国諸岡別符(もろおかべっぷ)内の所領(現福岡市博多区)、同国楽一(らくいち)名(現穂波町)なども同時に失われたと見られる。
 稲童名はそののち中世を通じて和布刈神社の所領として維持されてゆく。室町期・戦国期の詳細な動向は明らかにならないが、永禄四年(一五六一)一一月一五日には、稲童村に対する乱暴狼藉を禁じた文書(禁制(きんぜい))が、毛利(もうり)氏から同社へと発給されている(写真3)。このころ豊前北部では毛利氏と大友氏による争奪戦が続けられていたが、同年一一月五日に大友(おおとも)勢が門司城攻めに失敗し敗走しており、京都平野一帯は追撃する毛利軍で溢れていたと推定される。こうした軍事行動から稲童の安全を保証してもらうため、和布刈社は毛利氏から禁制を得ていたのである。領主が所領の平和を保持するため禁制を要求し、代わりに対価を払うというあり方は、ひろく戦国時代に見受けられる行為であった。こうした点をふまえるならば、和布刈神社にとって稲童は極めて重要な所領であったと考えて良いだろう。
 
写真3 毛利氏奉行人連署禁制案
写真3 毛利氏奉行人連署禁制案(和布刈神社所蔵)