天生田荘は、国府所在地から西へ今川(いまがわ)を越えた現在の天生田に相当する(一五世紀までは天雨田と表記されるが、本文の表示は現行の天生田とする)。古代の律令国家が築いた官道(かんどう)が荘内の東西を貫いており、また今川を下ればたやすく周防灘へ抜けることができる要地である。南には飯岳山(いいだけやま)から伸びる山塊が連なり、峰上には京都平野を睥睨(へいげい)する軍事的要衝の馬ヶ岳(うまがたけ)城が臨んでいる。天生田荘はこうした地政上の要地を占め、ゆえに興味深い歴史像を我々に示してくれるのである(一章図1参照)。
後述するように鎌倉末期から中世を通じ当荘を掌握したのは安東(あんどう)氏であった。彼らは近世に入ると姿を消してしまうが、その文書類はいかなる経緯か不明ながら遠江国御家人本間(ほんま)氏が所有するところとなって伝えられてきた。残念ながらこの本間文書は現在行方が分からなくなってしまったが、戦前に東京大学史料編纂所が作成した影写本(えいしゃぼん)と呼ばれる精密な複製によって、その詳細を知ることができる(山口隼正「『鎮西料所』豊前国天雨田荘と安東氏」)。いまこの本間文書を中心に鎌倉時代から室町時代にかけての天生田荘の歴史を見ていくことにしたい。