天雨田氏による支配

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 天生田荘が史料にその姿を見せるのはかなり遅く、鎌倉時代末期の一四世紀に入ってからとなる。そのころ天生田荘には天雨田氏とよばれる一族があって、荘官(しょうかん)の一つ公文(くもん)という役職をもって現地を支配していた。正和三年(一三一四)一二月六日に鎮西探題(ちんぜいたんだい)が天雨田次郎憲行(のりゆき)に宛てて出した下知状(げちじょう)(幕府が発給した判決状)によると、憲行は肥前国神崎(かんざき)荘内(現佐賀県神埼郡)に屋敷などを所有していた。この所領は彼が文永・弘安の役(ぶんえい・こうあんのえき)で蒙古(もうこ)軍と戦い、その恩賞として拝領したものと記されている。おそらく天雨田氏は鎌倉幕府の御家人(ごけにん)であり、幕府の求めに応じて出陣し功績を挙げたのであろう。神崎荘は細かく分割され、天雨田氏のような御家人らに対し恩賞として給与されていたことが知られている(瀬野精一郎編『肥前国神崎荘史料』)。
 通例、御家人になると地頭(じとう)という職(しき)を幕府から公認されて荘園・公領を支配し、公家や寺社といった上級領主の支配から自立するのが通例だった。しかし九州では天雨田氏のように、公文や下司(げし)といった幕府から直接に保護されない職に甘んじ、身分のみ御家人となった武士たちが多くいた。そうした御家人たちは、大規模な所領をあたえられて東国から移住してきた御家人たちに比べると、かなり弱い立場にあることが一般的であった。
 もっとも天雨田氏は、地頭職を持つ御家人とも対等に渡りあう実力を持っていたと見え、延慶三年(一三一〇)には、田川郡赤荘(現赤村)の地頭因幡彦鶴丸と鎮西探題において相論に及んでいる(同年六月□日「因幡彦鶴丸代兼実申状」)。彦鶴丸は、天雨田憲行が赤荘内の所領をめぐって、地頭に告知することなく岩熊地頭代の三郎左衛門尉景範を提訴したことに異を唱えた。憲行が、もともと所領に何の権利も持たない景範を押領者として訴え、勝訴の判決を得ようとするのは不当と断じたのである。無権利者を訴えて勝訴し、その判決状を根拠として本来の権利者を脅かすという事例は、登記や裁判の制度が未発達な中世においては間々見受けられるものであった。岩熊地頭代の景範について、彦鶴丸は憲行と「和与同意」していると非難している。もしこれが事実ならば、憲行と景範の訴訟ははじめから仕組まれたものであり、かつ景範は憲行の指示を受けるような存在であった可能性がある。景範の住む岩熊は天生田の西五キロメートル、現在の勝山町内に相当する。天雨田氏は近隣の勢力と協調しつつ、様々な手法を用いることで、より強い権利を持つ地頭さえ脅かしていたのだろう。天雨田氏は天生田荘を拠点として、隣郡さらには肥前にまで所領を広げるなど、相当幅広く活動していたのである。