このような天雨田氏の活発な活動の背景には、鎌倉幕府の実権を掌握していた執権(しっけん)北条氏の存在があったと考えられる。その後、元応二年(一三二〇)天雨田行政(ゆきまさ)は天生田荘公文職および武松(たけまつ)名(市内今井に武松という地名はあるが、ここに比定できるか不明)を安東鶴益丸(つるますまる)なる人物に譲与している。この譲与については何らかの相論があったようで、三年後の元亨三年(一三二三)に調査がなされ、最終的に北条氏嫡流(得宗(とくそう))に仕える有力被官(ひかん)、安東助泰(すけやす)によって譲与の有効性が確認された(元亨三年六月二二日「安東助泰書下(かきくだし)」本間文書、写真4)。こうした手続きからみて、天雨田氏もまた北条氏に従う被官、いわゆる得宗被官であったと見てほぼ間違いない。天雨田氏は北条氏とのつながりを持つことで、在地社会で比較的優位に立っていたと予想されるのである。先に見た稲童名と同様に、天生田も北条氏の影響下におかれていたことになる。
元応の譲与に関わって登場する人物を見ていくと、公文の天雨田行政の上にはその同族と思われる「給主(きゅうしゅ)」天雨田亦次郎(またじろう)のいたことがわかる。亦次郎は行政による譲与の実態を調査するために、安東助泰の命を受けて使節となり九州へ下っている。給主とは北条氏の所領、いわゆる得宗領にしばしば見受けられるもので、北条氏の所有する地頭職(そのほか各種の領主職の場合もある)を委ねられ、そこから上がる収益を給与として与えられた被官を指す。おそらく天生田荘では北条氏が地頭職を持ち、そのもとで天雨田亦次郎が給主、さらにその下に公文職(くもんしき)をもつ天雨田行政があったことになるのである。
この譲与をきっかけとして天雨田氏は姿を消し、代わって安東氏が登場することになるのだが、そもそも天雨田行政が同族でもない安東鶴益丸に公文職を譲与したのはなぜなのだろうか。三年もたってからこの譲与の有効性を確認する手続きが取られていることからして、何らかの異議申し立てがあったことは想像に難くない。こうした軋轢が予想されるにも関わらず、行政が公文職を譲与したのは、その相手がほかならぬ安東氏であったからと考えられる。鶴益丸が系譜上どのような位置にあるのか判然としないが、安東助泰と密接な関係にあったことは間違いなく、その影響力は相当なものであったと見てよい。
安東氏は鎌倉後期に得宗被官として全国的に力を伸ばし、一四世紀初頭には和泉国を中心に西国の北条氏所領を掌握する勢力となっていた(石井進「九州諸国における北条氏所領の研究」)。北条氏は得宗家を中心に一族をあげて交通の拠点や都市的な場を抑えて全国的な支配を実現しており、安東氏はそうした支配ネットワークの上で活躍していたのである。近隣に目を向けると、北条氏は瀬戸内海から豊後水道に至る航路を掌握するために、北は門司関を確保し、南に豊後の佐賀関を抑えていたことが確認されている。とりわけ佐賀関では助泰の父安東蓮聖(れんしょう)が給主となっており、彼らが豊後から豊前にかけて強い関心を抱いていたことを推測させる。天雨田氏による譲与が自発的なものであったにせよ、半ば強制されたものであったにせよ、豊前国衙の近傍にあたる地を抑えたいという安東氏の意向が作用していたことは否めない。結果として天雨田氏は歴史から姿を消してしまうことになったが、安東氏の意を迎えることは、天雨田氏にとっても利益になるとの状況判断があったことは間違いないだろう。