さて天生田荘が北条氏、それも得宗と呼ばれる北条直系の所領となっていたことが明らかになったのであるが、実はこうした動向はひとり天生田に止まるものではなかった。行橋平野の南部、すなわち国衙に隣接する地域には様々な形で北条氏の力が及んでいたのである。国衙の西に位置する稲童名が、領主の武藤氏を介して鎮西探題を歴任した金沢北条氏と結びついていたことは既に述べたごとくである。さらに天生田の西に隣接した吉田(よしだ)荘や、天生田と稲童に挟まれる形で存在していたとみられる平嶋(ひらしま)もまたやはり北条氏と繋がっていたことが窺われる。
吉田荘は、下稗田(ひえだ)に所在する大分(だいぶ)八幡神社の略伝記(『京都郡誌』所収)によると、前田(まえだ)・中川(なかがわ)・下稗田(しもひえだ)・上稗田(かみひえだ)・大谷(おおたに)・堤(つつみ)・平尾(ひらお)・下久保(しもくぼ)をおおう長峡川中流域に所在していた。史料上の初見は建長五年(一二五三)一〇月の「近衛(このえ)家所領目録」(近衛家文書)に遡り、摂関家の筆頭を占めた近衛家を本所に仰ぐ荘園であったことが知られる。鎌倉期の在地状況を伝える文書・記録は存在しないが、南北朝期の観応二年(一三五一)に宇都宮(佐田)公景((さだ)きみかげ)が、鎮西管領一色道猷(範氏)(いっしきどうゆう(のりうじ))から当荘地頭職を勲功の賞として与えられた際に、これが「大夫家時(たいふいえとき)跡」であったと見えている(同年正月三〇日「一色道猷宛行状」佐田文書、写真5)。この家時とは、北条の庶流大仏(おさらぎ)氏に属する可能性が高く、幕府滅亡と同時に没収領として恩賞地に宛てられていたことが予想されるのである(石井前掲論文)。
また平嶋については、ほとんど情報がないものの、建武五年(延元三、一三三八)に田口泰昌(たぐちやすまさ)が勲功の賞として当地をあたえられた際には、「備前兵庫頭入道宗演(そうえん)跡」であったと見えている(建武五年正月二三日「足利尊氏下文」鶴原泰嗣所蔵文書)。幕府滅亡から間もない時期であり、これもまた北条氏関係者である可能性が強い(石井前掲論文)。豊前国では弘安から正安にかけて、「備前守」を称する人物が守護に就いており、やはり北条一族と推測されている(佐藤進一『増訂 鎌倉幕府守護制度の研究』、北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』)。ここで現れる備前兵庫頭入道宗演は、呼称からみて父が備前守で、自らが兵庫頭となって出家した人物であるから、年代的に一四世紀初頭に豊前守護となっていた人物の子に相当するのではなかろうか。とすれば平嶋が守護北条氏と密接に関わっていたことになる。
以上、吉田・天生田・平嶋・稲童と並べてみるならば、国衙北側の西から東へとつづく一帯を、すべて北条一門で掌握していたことが分かる。国衙とその外港(大橋・今井津)の中間地帯を抑えることで、国衙機能を掌握するとともに、その南に勢力を維持していた宇都宮(うつのみや)一門に睨みを効かせることもできたのであろう。以上、北条氏所領がこの地域に集中して設定されていたことは、決して偶然ではなく、地政学的に極めて意図的な措置であったと推測しておきたい。