南北朝期の天生田荘

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 鎌倉幕府の滅亡とそれにつづく南北朝内乱は、当荘周辺にきわめて深刻な変化を与えることになる。大きな力を握っていた北条氏が俄に消滅したことで、在地は変転する権力者の動向を窺いながら、流動的に推移するのである。
 幕府滅亡の直後の元弘三年(一三三三)一二月、宇佐大宮司到津公連(いとうづきんつら)は、九五町余もの田地を自ら創建した宇佐大楽寺(だいらくじ)に寄進しているが、そのうちに天生田荘内の「岡本田六反、畠地荒野」を見出すことができる(同年一二月日「宇佐大宮司宇佐公連寄進状案」到津文書)。寄進状によれば、これらの田地は、もとより神領であったが権門や武家の被官に押領されていたもので、建武政権によって返却されたものだと見える。到津公連は、新政権と強く結びつくことで宇佐大宮司となった人物であり、以後も一貫して南朝方として活動を続けたことで知られる。大楽寺創建にあたっても後醍醐(ごだいご)天皇の勅許を得ており、後醍醐のブレーンを排出した西大寺から道蜜(どうみつ)上人を招き、南朝を支えるイデオロギーの拠点としたのである(海津一朗『中世の変革と徳政』)。岡本田がどのような歴史をもっていたのか判然としないが、いつのころか宇佐宮領になっていたのであろう。
 いうまでもなく天生田荘の地頭は北条得宗家であったから、直ちに本荘全体は新政権によって没収されたと考えられる。いわゆる元弘没収地(げんこうぼっしゅうち)の一つである。没収の直後にこれがどう処理されたのか定かでないが、暦応三年(延元五、一三四〇)二月日の一色道猷目安状には(『祇園執行日記』紙背文書)、当荘が鎮西管領一色氏の料所になっていた旨、記されている。足利尊氏は後醍醐天皇に離反したのち京で敗れ、建武三年(延元元、一三三六)に軍勢の建て直しのため九州に下った。態勢を整えすぐさま京上するのであるが、九州を押さえるため管領として一色道猷を博多に残していった。目安状によると、道猷は暦応二年(一三三九)に五カ所の所領を給与されたが、そのうちの一つが当荘であり、またこの段階で彼が安定した支配を保っていた唯一の所領と見える。当時道猷のおかれた政治的立場は極めて微妙で、与えられた経済基盤も小さいものであった。というのも尊氏側を九州で支えた少弐・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏ら守護たちは、北条氏が鎮西探題を通じて行っていたような厳しい統制の復活を警戒したのである。とりわけ北九州一帯に強い影響力を持ち、大宰少弐としての特権的地位を自負する少弐氏は、一色氏の存在を煙たいものと見て非協力的であった。道猷の記した目安状は、そうした窮状を訴え、上洛することを尊氏の執事高師直(しつじこうのもろなお)に求めており、それが叶わないならば、管領料国ないし料所を給付するよう求めた内容となっている。
 さてこうした状況を見てみると、道猷が唯一天生田荘のみ安定した支配を保つことができたのは何故なのだろうか。目安状によると、彼が鎮西に給付された他の所領は、少弐氏や宇都宮氏といった在来の勢力が所有者であると主張し、道猷から実力で奪ってしまっている。天生田の場合、このような動きがなかったのは、元弘没収の際に尊氏(もしくはその周辺)が確保し、直接道猷に給与したことによるのだろう(山口前掲論文)。こうして道猷は、数少ない料所の一つとして天生田荘を安定して維持し続けたのである。暦応以降も一色道猷・直氏(なおうじ)親子の脆弱な立場は変わらず、観応擾乱(かんのうじょうらん)の最中には一時南朝に下るなどの迷走を見せ、文和四年(正平一〇、一三五五)ついには南朝懐良(かねよし)親王によって九州を逐われている。そののち一色氏が九州にもどることはなかったが、天生田については一五世紀を通じて家領として保持し続けるのである。
 上級領主の変転は右のとおりであるが、在地ではどのような変化が生じていたのであろうか。結論を先に述べるならば、安東氏は得宗被官であったにもかかわらず、幕府滅亡とそれにつづく混乱を巧みに生き抜き、かえって天生田の周辺へと勢力を発展させることになる。和泉国を拠点とした安東氏嫡流もまた同様に生き延びており(納富常天「泉州久米田寺について」)、安東一族は全体として北条氏を見限り、生き残りを図った可能性が高い。
 南北朝に活躍した安東氏当主は孫次郎助阿(じょあ)なる人物である。活動年代から考えて天雨田氏から譲与を受けた鶴益丸その人ではないかと推測されるが、彼は北に隣接する弥勒寺領荘園大野井(おおのい)荘ならびに畠原下崎(はたばるしもさき)荘へも所領の拡大を図っていた。詳細については一三七頁以下に譲るが、北九州が南朝支配下におかれていた貞治六(正平二二、一三六七)前後に活発な動きを見せている。このころ大野井荘・畠原下崎荘をめぐっては、宇佐弥勒寺(みろくじ)と石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)内の律院善法寺(りついんぜんぽうじ)が激しくその領有を巡り相論を繰り返していた。助阿とその弟三郎入道生阿(せいあ)はそれ以前から大野井一帯の支配権を握っていたようで、これを確保し続けるため、南朝方の守護勢力と提携したり、大宰府にいた善法寺の雑掌(ざっしょう)を支援するなどして、弥勒寺側の影響力を排除しようとしていたことが分かる。自らにとって都合の良い領主があればこれを利用し、巧みに在地支配を維持し続ける様子は、当時の在地領主に共通した振る舞いであった。いずれにせよ安東氏は南北朝期の混乱を通じて天生田から北へ西へと支配領域を広げたのである。