天文二〇年(一五五一)に大内義隆(よしたか)が滅ぶと、豊前一帯は安定を失い戦国の様相を呈することになる。このころ安東氏の当主は肥後守を名乗っており、実名は不詳であるが後に出家して宗覚(そうかく)と名乗る人物であった。翌二一年、大友氏出身の義長(よしなが)が大内家の家督を継ぐと、安東氏も義長に属して天生田荘ほかの安堵を得ている(天文二一年九月二六日「大友義長袖判安堵施行状」本間文書)。この安堵によると、天生田荘は税として八〇石を仲津郡に納入することが義務づけられており、余得という名目で四〇石が安東氏の収益となっていた。
つづいて大内義長が毛利元就(もうりもとなり)に滅ぼされると、安東氏は豊前に侵入してきた大友氏の支配下に入った。永禄四年(一五六一)二月には忠義を尽くした功績により、大友義鎮(よししげ)から新たな所領が預けおかれている(同年二月二九日「大友義鎮預ヶ状」本間文書)。注目すべきは西方の久保(くぼ)荘内に五二町弱とかなり大きな所領を給付されたことである。久保荘は現勝山町大久保一帯を故地とする荘園であるが、戦国期には東へと領域を拡大し、吉田荘を荘内に取り込んでいた模様である。また大野井と天生田の中間に位置する寺畔(てらなわて)八町も併せて給与されており、一段と大きな影響力を確保したと見受けられる。
一方、永禄五年から同九年にかけて、安東一族は国府の南、国分寺西郷一帯で地主として土地支配を進めていたことも確認される(永禄九年一二月二八日付「国分寺領寺辺西郷中村分未進目録」利根(とね)文書、写真9)。当時の土豪たちは、領主として公認された領地のほかに、土地に対する様々な権利を買得して地主になっていた。領主が領地内の年貢を徴収する役割を担い、これを大名へと上納する立場にあったのに対して、地主は年貢以外の中間得分を獲得する権利を持ち、領主に年貢を納める義務を負っていた。安東氏は行橋市域を越え、地主として南へ勢力を拡張していたのだが、こちらでは大友氏の任じた領主と年貢額を巡って激しく対立し、数年にわたり年貢の支払いを拒んでいる。領主側が新たな検地によって決定した年貢額を要求したのに対して、宗覚らはこれまでの慣例となっている額を主張することで自らの利益を守ろうとしている。このように安東氏は当時の在地土豪一般に見られるように、ある地域では領主として臨み、ある地域では領主と対立する地主として行動していたのである。
永禄一三年に安東氏は大友氏から知行の坪付を与えられている(永禄一三年一〇月一九日付「知行坪付」本間文書。なお永禄一三年は四月に改元して元亀となるが、同時期大友領国では未だ永禄が使われていた形跡がある)。坪付とはすなわち当時安東氏が領主として支配する所領の一覧である。ここには大野井・長江・寺畔・二塚・久保荘の百三〇町を超える田地が書き上げられているのだが、彼らの本領である天生田荘は見えていない。こうした処置は、おそらく大友方の思惑によるものであろう。安東氏を大友方の軍事力に組み込むため、新所領を与えて優遇すると同時に、一方で本領の領主とすることは敢えて認めず、地主的な地位に止めたと見られる。当時の豊前の土豪衆が見せた向背著しい姿勢を大友方は十分に認識しており、これに牽制を加えたと推測しておきたい。象徴的なことに、天生田荘には大友方の有力武将奈多鑑基(なたあきもと)の所領が設定されていた(永禄四年正月八日「奈多鑑基預ケ状」泥谷(ひじや)文書)。大友氏は直臣団を配置して新参者を統制していたのである。
永禄四年(一五六一)大友軍は豊前制圧を完成させるため、門司城に毛利軍を封鎖し優勢を保っていた。しかし同年一一月、長きに亘る攻城戦に失敗すると雪崩をうって敗走した。黒田原を抜け天生田・国分寺一帯までたどり着いた大友軍は、京都平野に上陸してきた毛利水軍の激しい攻撃を受け、夥しい犠牲者を出している(四月一八日「津崎薫勝書状」津崎(つざき)文書)。この前後の安東氏の動静は明らかでないが、ほどなく大友方が戦況を回復しており、引き続き大友方に属する判断をしたようである。
永禄七年、目まぐるしい状況の変化に対応してきた安東宗覚は引退を決意したらしく、子増俊(ますとし)に対して教訓を加えた上で所帯を譲与している(同二月一七日付「安東宗覚譲状」本間文書、写真10)。増俊はこれを受けて大友宗麟(義鎮)(そうりん(よししげ))に安堵を求めており、相続承認と同時に式部少輔(しきぶしょうゆう)任官を認められた(一〇月一六日「大友宗麟安堵状」本間文書)。宗覚は譲与にあたって、同名(どうみょう)とよばれる一族衆や家来たちに憐憫を加え、その能力を慮って召し使うよう息子に教訓をしている。家を構成する人々をまとめあげ、公役を無事に勤めることで家の安泰を図ろうとする宗覚の思いは、当時の土豪層一般に通じるものだったろう。彼の書状からは、そうした思いが強く感じられ、大変興味深いものとなっている。こののち永禄末年には、毛利勢も豊前より撤収し、安東氏もしばし大友氏の下で安定した時代を迎えることになったのである。