天正六年(一五七八)一一月、大友軍は日向耳川(みみかわ)(現宮崎県日向市)において北上を目指す島津(しまづ)の軍勢と戦い惨敗した。安東増俊もまたこの戦いで戦死してしまった(『先祖附(せんぞづけ)』永青(えいせい)文庫所蔵)。彼はこうした事態を予想していたのか、出陣に際して譲状を認め息子に所領を譲与していた(同年三月一八日付「安東増俊譲状」)。この敗北を境に北九州の政情は俄に一変し、豊前も争乱状態に陥ってしまう。大友の弱体化を受け、天生田周辺でも毛利方に通じる小倉の高橋鑑種・元種(たかはしあきたね・もとたね)親子や、近傍の馬ヶ岳に拠る長野(ながの)氏らが蜂起したのである。こうしたなか安東氏も、ついに大友を捨てて毛利方に転じ、天正一〇年には高橋元種について山住城(現在地不明)の戦いで軍功をあげ、その賞として長江・大野井・天生田・寺畔・二塚・久保を安堵されている(同年三月二一日「高橋元種書状」本間文書、写真11)。ここに安東氏は名実ともに、長峡川・今川流域一帯を面的に抑える領主として認められたのである。そののちの動向は明らかではないが、うち続く動乱を巧みに乗り越え、最終的には小倉に入った細川(ほそかわ)家の家臣となったことが分かる。本間文書に伝わる安東氏関係の最後の文書は、慶長一四年(一六〇九)に安東五介が細川忠興(ただおき)より草場村・下原(しもばる)村(現豊津町)に併せて三〇〇石の知行を給付されたことを示すものである(同年九月九日付「細川忠興宛行状」本間文書)。以後、安東氏の京都平野における活動は確認できなくなってしまう。
寛永二〇年(一六四三)、細川氏は肥後熊本へ転封となり、家臣団もこれに従って豊前を離れた。安東氏もやはり京都平野をあとにして肥後へと遷ったのである。細川家臣の家譜をまとめた『先祖附』には、五介を初代とする安東氏の歴代が見えている。五介に関する記事を見ると、父式部少輔(増俊)が大友氏に従い耳川で戦死したこと、慶長一四年に細川家に臣従したことなどが記されており、まさに天生田の安東氏であると確認できる。五介は不運にも手伝普請(てつだいぶしん)のため江戸へ向かう途上、遠州灘で乗船が難破して亡くなったが、その子孫は幕末にいたるまで一〇代を数えて存続していたことが分かる。鎌倉以来の土豪安東氏はこうして京都平野を去り、いよいよ本格的な近世社会がこの地に始まることになるのである。