大野井荘がいつどのような経緯で成立したのかは明らかでない。しかし鎌倉時代の初頭にはその存在が確認され、建久八年(一一九七)の「豊前国図田帳写(ぶぜんのくにずでんちょううつし)断簡」(到津文書、写真12、以下図田帳と略す)によると、京都郡の内部に四〇町ほどの耕地を有していた。残念ながら仲津郡の記述が欠損していて状況はつかめないが、ほぼ同時期の作成と推定される「弥勒寺喜多院領所領注進状(みろくじきたいんりょうしょりょうちゅうしんじょう)」(石清水田中文書)には、大野井荘が全体で一二〇丁であったと見えるから、八〇町ほどが仲津郡内に存在していたと予想される。
右の二史料をつぶさに検討すると、同荘の内部が「庄田(しょうでん)」と呼ばれる部分と、「名田(みょうでん)」もしくは「例名(れいみょう)」と呼ばれる部分から構成されていることに気づく。そこで両史料の記事を整理・分類してみると、鎌倉初期の大野井荘の内部構造はおよそ次のようにまとめることができる。
大野井荘 全体 一二〇町
仲津郡分 庄田 二五町 名田 五五町
京都郡分 庄田 一五町 名田 二五町
仲津郡分 庄田 二五町 名田 五五町
京都郡分 庄田 一五町 名田 二五町
こうした内部のあり方は、荘園の成立過程を反映したものと考えられる。弥勒寺が大野井荘を創設するに当たり、豊前国衙(こくが)から正式に承認を得たのが「庄田」で、その後国衙領を何らかの機会に取り込んだ部分が「名田」・「例名」と推定される。
また「図田帳」には、大野井の「例名」が、弥勒寺の「加納得善名(かのうとくぜんみょう)」というまとまりに含まれると記されている。加納とは本来の荘園部分に付加された耕地を意味し、国衙半不輸(はんふゆ)の地であるのが通例だった。半不輸とは、年貢正税を国衙が取り、その他の雑役(ぞうえき)・公事(くじ)を荘園領主が確保するという両属の状態を意味する。弥勒寺はこうした加納を自らの荘園の周囲に広げ、「得善名」という名称のもと一括していたのである。そして事あるごとに国衙に迫って、権限の拡大を図り「庄田」化しようとしていた。大野井荘においても弥勒寺は「庄田」を核に「名田」を広げ、最終的には国衙の影響力を排除しようと努めていたのである。