荘園領主石清水八幡宮

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 宇佐弥勒寺は、宇佐神宮の神宮寺であったが、その支配関係は複雑な経緯を経て、院政期には京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の支配下に入っていた(飯沼賢司「権門としての八幡宮寺の成立-宇佐弥勒寺と石清水八幡宮の関係-」)。さらに鎌倉時代に入ると、石清水八幡宮を統括する社務紀(き)氏の一流、善法寺(ぜんぽうじ)家がその支配権を確保するに至っている。
 当時の大寺社は地方寺社を荘園と同じように支配しており、その立場は本所(ほんじょ)と呼ばれるのが通例であった。一方、地方寺社は本所の庇護を受けることで、安定的な所領支配を図っていたのである。弥勒寺領においても、社務坊と呼ばれた善法寺家が弥勒寺検校職(けんぎょうしき)を握って本所となり、弥勒寺領を支配する構図であったと分かる(徳永健太郎「鎌倉時代の八幡宮寺-善法寺坊家領の展開-」ほか)。
 承久二年(一二二〇)一二月一〇日、時に石清水宮検校であった紀祐清(ゆうせい)は、当荘を含めた弥勒寺領四カ所を子の宝清(ほうせい)に譲与している(「大善法寺祐清譲状」石清水菊大路文書)。宝清は善法寺家の嫡子で弥勒寺検校職を約束された立場にあった。そののち検校となった宝清は、仁治三年(一二四二)になると、検校職と大野井荘他四カ荘を併せて子の宮清(きゅうせい)に譲り(同年九月二五日「家田宝清譲状」石清水菊大路文書)、さらに文永一一年(一二七四)には、宮清が子の尚清(しょうせい)に、検校職および大野井荘ほか二カ荘を譲与している(同年七月「宮清処分帳」石清水菊大路文書)。
 こうした伝領の経緯を見てみると、大野井荘は多くの弥勒寺領荘園のなかでも特殊な性格を帯びていたことが予想される。弥勒寺領荘園は、その大半を占める子院喜多院(きたいん)領に限っても、九カ国一〇四カ所を数える膨大なものであったが(「弥勒寺喜多院所領注進状」)、その多くは善法寺家内で分有され、別相伝(べつそうでん)と呼ばれる所領になっていた。別相伝領は検校の統制下に置かれるものの、日常的にはそれぞれ独立して経営されており、検校から見ると間接的な支配関係にあったのである。大野井荘の場合は、一貫してそうした別相伝領に組み込まれることなく、弥勒寺検校職とともに譲与されており、特別な位置を占めていた可能性が強い。また隣接する苅田(かんだ)荘も同様の経緯を辿っていることから、弥勒寺にとって京都平野の荘園群は極めて重要と認識されていたと見てよいだろう。
 一三世紀の最末期に至ると、右のような相伝のあり方に変化が見られるようになる。尚清は初め実子に恵まれず、肇清(けいせい)を養子に迎えて弥勒寺検校職を譲ったが、後に実子通清(つうせい)が生まれると、永仁五年(一二九七)六月に譲与の内容を変更した。肇清の検校職は彼の一期(いちご)の間とされ、その後は通清が検校となって善法寺家を相続することが定められたのである(「善法寺尚清処分帳」石清水菊大路文書)。こうした検校職の異動のなかで、大野井荘はこれまでと異なる扱いがなされるようになる。通清への譲与と同時に作成された「尚清置文」によると、大野井荘は検校職と切り離され、尚清女「あこ」への譲与と決まり、一期の後に嫡子通清へ戻すよう定められた(石清水菊大路文書)。その後「あこ」による知行はなかったらしいが、正安二年(一三〇〇)になると尚清はあらためて、大野井荘を善法律寺(ぜんぽうりつじ)という寺院に寄進することを決めている(同年一一月一日「善法寺置文案」唐招提寺所蔵八幡善法寺文書、写真13)。善法律寺とは、正嘉元年(一二五七)に宮清によって石清水八幡宮内に創建された寺院で、善法寺家の安穏を祈願することをその役割としていた(「東大寺円照(えんしょう)上人行状」)。同寺はいわば善法寺家の氏寺であったが、ここで行われる愛染明王の供養料に大野井荘が充当されたのである。こうして大野井荘は、弥勒寺領でありながら善法律寺が支配する別相伝所領となり、複雑な状況を呈するに至っている。
善法寺家系図
善法寺家系図

写真13 善法寺置文案
写真13 善法寺置文案(唐招提寺所蔵 奈良文化財研究所提供)

 さらに通清に続いて康清(こうせい)が生まれると、父尚清はこの弟を愛し、応長元年(一三一一)には康清を嫡子へと変更してしまう。これに伴って膨大な善法寺家領は通清と康清に二分されることになった(同年一二月一五日「善法寺尚清処分状写」石清水菊大路文書)。弥勒寺領は、従来通り通清がその支配権を認められたものの、氏寺である善法律寺の管理権は、新たな嫡子康清に与えられたことで、大野井荘は弥勒寺領でありながら通清ではなく康清の下へと移ったのである。このように善法寺家内で、弥勒寺と善法律寺の支配が分裂してしまったことにより、南北朝に大野井荘は後に詳述するような混乱を迎えることになる。