在地領主の動向

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 一四世紀に入ると、荘園領主の動向のみならず在地の状況もある程度明らかになってくる。鎌倉後半に大野井に所領を有していたのは御家人の都(みやこ)氏であった。都氏はその苗字が郡名であることから窺えるように、それなりの由緒をもつ氏族だったと思われるが、系譜など詳細は明らかでない。ただ一族内に鋤崎(すきざき)を名乗る者があり、京都郡鋤崎村(現苅田町)に拠点を持っていた可能性が指摘されている。また関係文書が、豊前から遠く離れた大隅国の御家人禰寝(ねじめ)氏のもとに伝わっているが、情報が断片的なため両者の繋がりは今のところ不明である(恵良宏「鎮西豊前国に於ける在地領主の存在形態」)。
 延慶二年(一三〇九)九月一二日、鎌倉幕府の九州統治機関であった鎮西探題(ちんぜいたんだい)は、都一族内で争われていた大野井荘の田畠約三五町・在家十宇について裁定を下している(「鎮西下知状」禰寝文書、写真14)。この所領はかつて都法眼祐秀(ゆうしゅう)が所有していたもので、後に何らかの理由で売却され同氏の手を離れていた。ところが永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)によって、同六年(一二九八)一二月に都氏へと返却されると、一族内でこの所領をめぐる相論が発生し、探題への提訴に発展した。返却された段階で祐秀が死去していたため、所領の配分をめぐり遺族らが争ったのである。
 
写真14 鎮西下知状
写真14 鎮西下知状(禰寝文書)

都氏系図
都氏系図

 探題は、各人の訴えを聞くのみならず、豊前国守護代の道意(どうい)に命じて被相続権者のリストや系図を提出させたうえで裁定を下した。判決では、祐秀の嫡子鋤崎次郎時広(ときひろ)入道(蓮覚(れんがく))、庶子と推定される三郎入道生千(しょうせん)・肥前房良秀(りょうしゅう)に相続権を認め、さらに祐秀から見て孫娘とみられる讃阿(さんあ)にも所領の配分を行った。このうち良秀は既に死去していたため、その子経弘(つねひろ)が権利を引き継いだと見える。なお詳細な配分は次に掲げるごとくである。
   蓮覚     田  十二町七段二十代
          畠  四町六段三十代
          在家 五宇
   三郎入道生千 田  六町三段
          畠  二町三段二十代
          在家 三宇
   肥前房良秀  田  四町三段
          畠  一町五段
          在家 二宇
   讃阿     田  二町
          畠  四段

 禰寝氏庶流に伝わった坂口(さかぐち)文書には、良秀の権利を引き継いだ経弘が、応長二年(一三一二)に大野井荘内の「田所名内わけふん一方のちとうしき(地頭職)」を、甥の「ゆきの三郎二郎入道」に譲った文書が残されている(同年二月二二日「つねひろ譲状」)。おそらくこれが延慶の裁定で経弘が獲得したものに相当するのだろう。なお同文書の裏には、元徳三年(一三三一)に幕府から譲与を保証された際の署判が記されており、都氏が鎌倉最末期まで大野井荘内に権利を有していたことが窺える。しかし、これ以降、都氏は史料から姿を消し、再び姿を見せることはなかった。彼らの文書がどのような経緯で大隅の禰寝氏へと相伝されたのか、都氏の系譜について改めて検討していくことが今後の大きな課題である。