室町時代の大野井荘

146 ~ 148 / 898ページ
 南北朝の騒乱が終結し、一四世紀末期に入ると防長を抑える大内義弘(おおうちよしひろ)が豊前守護として現れてくる。大野井荘も同氏の影響下に組み込まれ、明徳元年(元中七、一三九〇)に大内義弘は自らの有力家臣である杉重明(すぎしげあき)を当荘の代官に任命した(同年九月一七日「大内義弘充行状写」周防杉文書)。これはいわゆる守護請(しゅごうけ)と呼ばれるもので、守護は年貢の納入を請け負う代わりに、現地の支配権を握るものであった。
 また応永一八年(一四一一)には大内盛見(もりみ)被官の内藤盛貞(ないとうもりさだ)・安富永選(やすとみえいせん)の両名が律院善法寺に請文を提出し、大野井荘半分の返却と同所よりの年貢毎年一五貫文の送進を約束している(同年三月一五日「沙弥永選・沙弥智得連署請文」唐招提寺所蔵八幡善法寺文書)。詳細は明らかでないが、同荘の半分は大内氏により接収されていたようである。このころ豊前一帯は戦乱がうち続いていたから、大内氏は兵糧米確保のため、半済(はんぜい)と呼ばれる強制的な接収を実施していた可能性がある。この請文を出した盛貞・永選の両名は、当時京都にあって大内氏の諸事務を担当する代官であり(応永二二年三月二日「沙弥永選・沙弥智得連署請文」鹿王院文書)、善法律寺への連絡を担当していたと考えられる。
 善法律寺の側も所領確保の努力を続けており、大内氏が少弐氏・大友氏と激しい戦いを続けていた永享六年(一四三四)には、盛見の後継者持世(もちよ)に祈祷巻数(かんず)を送って大野井荘の確保を図っている(同年四月二五日「大内持世書状」唐招提寺所蔵八幡善法寺文書)。また宝徳三年(一四五一)には、大内被官の杉宗国(むねくに)が善法律寺から送られた祈祷巻数に謝意を示すと同時に、大野井荘の年貢を田河郡金国(かなぐに)保・池尻(いけじり)の年貢とともに船便で京都へと送ったことを伝えている(同年四月二九日「杉宗国書状」同前、写真16)。さらに応仁・文明の乱の影響をうけて豊前地域が不安定化すると、大内氏は応仁二年(一四六八)一一月に豊前守護代の杉七郎に対して指示を出し、大野井・金国・池尻の年貢がきちんと善法律寺へ渡るよう手配しているのである(同年同月十七日「大内氏年寄連署奉書」同前)。
 
写真16 杉宗国書状
写真16 杉宗国書状(唐招提寺所蔵 奈良文化財研究所提供)

 なお大野井荘から京までの年貢の動きは明応四年(一四九五)の「善法寺領九州五ヶ正税所納日記(しょうぜいしょのうにっき)」に詳細な記載がなされており興味深い(同前)。一五七頁以降に詳述するが、大野井ほか三カ荘の年貢は総計九八貫余に及び、ここから大内氏関係者に対する様々な礼銭や諸経費が差し引かれている。そののち、倉敷(くらしき)となっていた大橋(おおはし)に集積され山口・兵庫を中継して石清水まで運送されていた。
 明応六年(一四九七)以降になると、代官となっていた岩国永興寺(えいこうじ)の僧が年貢の流用をしたことや、大内領国内が混乱したことなどによって納入が滞ったようで(明応八年一一月二五日「安富弘員書状」同前)、一六世紀初めには善法律寺もついに大野井からの年貢収入を失った模様である。
 さて大野井荘の在地状況であるが、南北朝期から引き続いて安東氏が勢力を保ち続けていた。彼らも大内氏の配下に入ることで影響力を維持したのである。本間文書によると、明応二年に大内義興(よしおき)から大野井荘地頭職半分ほかが安東氏に安堵されており(同年六月一九日「大内義興袖判安堵状」本間文書)、天文二一年(一五五二)にも大内義長(よしなが)から同様の安堵を受けている(同年九月二六日「大内義長袖判安堵状」同前)。大内氏の滅亡後、豊前の支配権が豊後大友氏に移っても、安東氏はその麾下で在地支配を維持し、元亀元年(一五七〇)段階の同氏の知行所領リストには、大野井荘二〇丁弱が見えている(同年一〇月一九日「知行坪付」同前)。さらに天正六年(一五七八)以降、大友氏が弱体化し反大友勢が台頭すると、安東氏は豊前北部を抑えていた高橋元種に与しており、天正一〇年(一五八二)には軍功の賞として元種から大野井荘を含む相伝所領を安堵されている(同年三月二一日「高橋元種書状」同前)。
 このように安東氏は戦国末期に至るまで一貫して大野井に抜きがたい勢力を有しており、近世初頭に至り細川氏に臣従して肥後熊本に移住するまで、この一帯を掌握していたのである。