二つの郡にまたがる荘園

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 大野井荘について、鑑真和上で知られる奈良・唐招提寺に残る古文書によってその沿革をみてきた。これから読者と一緒に大野井荘現地を訪ねてみたい。すなわち今川校区の大野井周辺である。明治二〇年代作成の地籍図を集成した土地宝典(昭和四七年作成)、昭和四一年に撮影された空中写真、昭和四五年に作成された建設省国土地理院の国土基本図(五〇〇〇分一図)などの地図資料、そして長年この土地を耕作してきた人たちの記憶を素材に、古文書とつきあわせながら、中世荘園の復原を試みたい。
 すでにみたように大野井荘は全体が一二〇町以上で京都郡と仲津郡の二郡にまたがっており、京都郡分には四〇町ほどがあって、仲津郡分は八〇町ほどあった。明応四年(一四九五)の大野井荘史料には
    五百文 段銭奉行
    豊前国京都郡両度

とあるから、ここでは大野井荘の段銭は京都郡分として納入されていた。京都郡の荘園として扱われていたといえる。ただし五〇〇文というのは現在の貨幣価値(米の値段で換算、米一石はおおむね銭一貫すなわち一〇〇〇文に相当した)でおよそ八万円ぐらいだから、さほどに多額ではない。多くは仲津郡にあったと考えられる。
 江戸時代そして明治時代の大野井村は仲津郡であった。今の大野井は今川校区で、一方、西に隣接する検地(けんじ)は稗田校区で旧京都郡に属す。郡界(大字界、校区境)は検地溝と呼ばれる水路である。検地溝は低地にあって、洪水時には多量の水が流れる。もともとは自然水路であろう。水路の両側にそれぞれ字橋詰がある。かつては橋があって、その橋の架かる川が郡界であった。
 
写真17 王埜八幡宮の森
写真17 王埜八幡宮の森

 
写真18 津熊荘から大野井荘にかけての一帯(1966年撮影)
写真18 津熊荘から大野井荘にかけての一帯(1966年撮影)
この写真は、国土地理院長の承認を得て、同院撮影の空中写真を掲載したものである。
(承認番号 平17九複、第176号)

 現在の大野井は井尻川の右岸(大村、園田、北大野井)と左岸(市場)に立地する。川で隔たれてはいるが、左岸市場は右岸を流れてくる大野井溝によって灌漑される。井尻川で寸断されるため、吹上(ふきあげ)とよばれる逆サイフォンによって底を潜る(写真19)。これによって右岸(南)から左岸(北)に灌漑用水が渡されている。本来はつながっていた用水路が、河川の移動により吹上設置を必要としたのであろう。竹ノ下という字があるが、右岸に上竹ノ下、左岸に竹ノ下と同じ字が分断されていることも、当初には地続きであったことを暗示する。安廣嘉之氏の所蔵する安政水帳に「竹ノ下新堀川」とある。今の井尻川は近世に新水路として掘削されたと推定できる。
 
写真19 大野井溝の吹きあげ
写真19 大野井溝の吹きあげ(対岸の水路はトンネルで川の下を潜る)

 
図1 大野井荘に残る中世地名
図1 大野井荘に残る中世地名

 王埜八幡神社の東にヤブロウという地名がある(今は字以外の通称、明治期にはヤブレ新地という字があったので、関連するか)。そこから上竹ノ下にかけて、ヤブロウと呼ばれる水路が流れるが、その東横に幅のある低地があって、井尻川につながっている。旧流路を示すものではないか。流路の変遷があった。人間の手によって、自然河川の河道が安定するまでには、きわめて長い時間を必要とした。
 大野井の南から流末にかけてはフルコウ(古川)、川田、アミダ河原、後河原といった旧今川河道を示す地名が多い。今川は現流路よりは西に、南大野井集落の近くを流れていた。また井尻川は土地宝典と比べてみれば、土地宝典作成以後に直線河道化が進められたことがわかる。元来はもっと蛇行していた。