大野井全体の村鎮守が王埜八幡である。宇佐八幡宮の分祀であろう。一帯が宇佐八幡の強い影響下にあったことがわかるが、大野井荘が広義の宇佐八幡宮(石清水八幡宮)領(直接的には善法寺坊領)であったことによる。
神社境内にはとても長い参道がある。字は馬場である。馬が駆ける「馬場」があった。広く長い馬場では、大祭には神事としての流鏑馬(やぶさめ)が行われたであろう。今もわずかに土手が残っている。並木があったとも考えられるが、埒(ラチ)の名残であるかもしれない。埒とは馬場周りの柵で、このラチに沿って馬が走る(「埒が明かない」の語源としても知られよう)。馬が駈ける流鏑馬・笠懸(かさがけ)が行われた。流鏑馬開催には経費がかかる。後述するが『平賀文書』によれば、津熊(つのくま)荘には中世に流鏑馬神田があった。地名としては市内延永(旧京都郡)にヤブサミという字がある。こうした流鏑馬地名は、流鏑馬経費を負担する田が、いくつものむらにあったことを示す。どこの神社でも神事として流鏑馬が広範に行われていたのだろう。
なお隣接する京都郡側の検地村氏神は日吉神社であるから、検地一帯は比叡山延暦寺系統(新日吉社・近江など)の荘園であった可能性がある。天生田には春日神社が祀られているが、宇佐社の本家(荘園制の頂点にたつ支配者)は藤原氏であり、宇佐宮領は摂関家領でもあったから、そうした関係であろうと推測される。神社の勧請は何らかの歴史的な経緯を反映している。