殿屋敷

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 現地において、まず注目したい場所は殿屋敷である。現地には小さな塚があるのみで、屋敷の跡らしきものはない。だが地名はそこに殿と呼ばれる人物がいたことを示している。「殿様かなんかがいたらしい」という程度の伝承はある。井尻川は今の位置を流れていなかったから、氏神王埜八幡に近接する良好な場所である。さて殿とは誰のことなのだろうか。大野井荘田所職には都氏が補任されていた(禰寝(ねじめ)文書)。都という苗字は、京都郡の「みやこ」に由来する。郡名を苗字とする領主である。京都郡有数の武士で、郡内のどこかに本拠地があって、郡内のいくつかの荘園所職を有していた。大野井村は近世には仲津郡であった。殿屋敷の位置も中世仲津郡であろう。都氏の本拠は不明であるが、大野井荘には彼自身かまたは代官の屋敷があって、荘園年貢の収取に当たった。大野井荘領家職は京都の石清水八幡宮社務坊・善法寺坊であるから、山城に送られた。善法寺も現地に年貢収取に当たる機関をおいた。現地には留守所・政所があって、そこを拠点とした人物が「殿」と呼ばれていたことが考えられる。
 南北朝後期からは大内氏が年貢送進を請け負い、現地には重臣杉氏の代官がいたと考えられる(後述)。この機関(留守所・代官所)がここにあった可能性も考えられる。現地支配機関は、代替わりや領主の交替があっても、長年月に及んで同じ位置に継承されることが多かった。