坪地名

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 大野井に一ノ坪と二十八という字がある。ともに条里制に由来する。大野井一帯の水田をみると、碁盤の目状に規格化された水田が並ぶことに気づく。これが奈良平安時代から広く採用された一から三十六までの番号地番(坪名)を特色とする条里制耕地の遺制である。すでに本市史・古代編に詳述されているが、大野井のみならず、京都平野の多くには条里制が施行されていた。牛による耕作には、たとえ細くとも、とにかく長い水田が有利であった。牛の進行方向の転換、つまり折り返しが少なくてすむからである。ただし長い水田は傾斜・漏水などの問題もあって、決して容易に造成することはできなかった。
 奈良平安時代から牛による畜力耕作が次第に普及する。現代の圃場整備が機械力に対応する耕地改良なら、古代の条里制施行は畜力導入に対応する耕地改良であった。条里制は一の坪から六の坪で折り返し、三十六まで続く坪並み(並び方)を特色とし、一つの郡のなかでは並び方は統一される原則であった。大野井に残る一ノ坪と二十八の二つの字名だけで条里制耕地の坪並み(並び方)を復原するとなると、考え得るのは北西に一ノ坪が始まり、北東に三十六で終わる千鳥型(六の倍数毎に折り返す型)であろう。今川右岸の羽根木にはサノ坪、十五、十六があって、これも厳密な列びは把握しづらいが、もっとも考えやすいのは同じく北西から始まって南行、ついで北行をくりかえす千鳥型であろう。今川周辺の仲津郡条里をこのように考えたい。
 なお京都郡条里も津積に残る五ノ坪、八ヶ坪はこの列びにあうが、延永のソウノ坪(三ノ坪、「三」をソウ、ゾウと読むことは人名ではふつうにある。北斗七星をシソウぼし・四三ノ星という例も同じ)、九の坪、および苅田町岡崎の四ノ坪、八ツ坪については後二者を十四、十八の転訛、省略形と考えれば、この列びにかろうじて合致する。
 条里の坪地名はいずれも一〇〇〇年以上の歴史をもつ古代地名だといえる。