2 現地をふまえて文献を読む

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 大野井荘で収穫された米のうち一部が、年貢となった。この米は京都・善法寺に送られたのだろうか。その具体的な様子を見たい。明応甲寅(三年、一四九四)および乙卯(四年、一四九五)秋分の正税所納日記(年貢徴収・配分内訳、日記とは記録のこと)および明応乙卯一一月から丁巳(六年、一四九七)正月が残されている(善法寺文書)。前者を見よう。
 これは豊前四カ所、周防一カ所からの年貢を京送したもので、田川郡池尻、金国、そして大野井からは九八貫一〇〇文、苅田からは一〇九貫文、そして周防の新野河内からは一五貫文が年貢として徴収された。合計二二二貫一〇〇文であった。大野井分はいくらであったのか正確にはわからないが、単純に三カ所分九八貫の三分一とすれば三〇貫強である(のちにみるが、おそらく大野井分は四〇石=四〇貫であろう)。そこから、さまざまな諸経費が差し引かれて、二百余貫のうち最終的に善法寺には一二五貫五五〇文が納入された。つまり年貢として豊前から出した分の六割弱が寺納された。
 この正税所納日記は案文つまり写(コピー)として善法寺が作成したものだが、おそらくもととなる文書(原本)は、守護大内氏の拠点山口で作成された。というのは文中に「豊前」という言葉が頻出するが、もし豊前で作成されたならば、自国を指すこの言葉を、これほどには使うまい。「自豊前国山口迄」とあるが、周防国山口とは書かなかった。こうした表現は、山口での作成を示唆する(見たように、これより以前から大内氏の豊前守護代である杉氏が年貢納入に当たっている)。
 四割に相当する諸経費は、1下行注文(必要経費支給分の明細)、2就苅田入目(いりめ)(守護所苅田用費用)、3臨時下行(臨時経費)に区分して書き上げられている。2は守護所松山城の局(つぼね)、女中に関する経費が多い。大野井荘ほかは松山城(奥向)料所にも宛てられていたのであろう。1に
 
  三百文   豊前国大橋  四十石 倉敷
  八十文   河口 石別二文充

 
とある。大橋に大野井荘ほかの倉敷があったことを示す貴重な記述である。大橋は、北は長峡川河口、南は今川河口に接している。大野井のいずれかにあった津(井尻川岸か今川岸か)より川船で下った。「四十石 倉敷」とあるが、四〇石は四斗俵にして百俵である(当時の一俵は三斗から四斗前後であった)。四〇石はおよそ四〇貫文に相当する。さきの九八貫の三分一という目安からいって、大野井からの善法寺年貢米は四〇石であったと考えられる。現代の貨幣価値で六〇〇万円相当か(中世にはおおむね米一石が銭一貫であったから、それを基準にして換算すると、一文はおおよそ今の貨幣価値にして一五〇円ほど、一貫は一〇〇〇文で一五万円ほどである)。大橋での倉敷(倉敷代・倉敷料)は三〇〇文であるから、四万五千円ぐらいか。何カ月分かの倉庫代であろう。それとは別に河口(かわぐち)に八〇文払った。石別二文であるから、二俵半に対して三〇〇円で、かなり安い。河口も何を指すのかはっきりしないが、大橋よりさらに川を下った河口での作業か。八〇文という値段(一万二千円相当)からすると、大橋から大型船(瀬戸内航海船)の待機する河口までの、艀(はしけ)(平田(ひらた)船、川船)による運搬経費か、ないしは繋留料か。
 
写真21 明応三年正税所納日記
写真21 明応三年正税所納日記
(善法寺文書 唐招提寺所蔵 奈良文化財研究所提供)

     (前略)
  九百五十文 自豊前国山口迄二十石運賃--(1)
  二百文  兵庫永観千疋運賃--(2)
      合六貫廿七文--(3)
     巳上五十四貫四百五十文--(4)
     残百六十七貫六百五十文--(5)
  廿七貫九百五十文--(6) 二百文 自兵庫替分 永観千疋運賃--(7)
     合廿八貫百五十文--(8)
    残京著分 百卅九貫五百文--(9)
  十三貫九百五十文  分一引之--(10)此内長大力(刀カ)在之
    定寺納分
  百廿五貫五百五十文也--(11)

 
 (2)および(7)ときわめて似た表現がある。千疋を兵庫の永観に、替(かわし)、つまり為替(かわせ)で送金した代金が二百文であった。当時為替の額面はこの一〇貫文を基本単位として送金された。一〇貫(一万文)すなわち千疋であった。いまでいえば為替一枚あたり一五〇万円相当の額面が送られた。紙切れではあるが、為替はそれだけの貨幣価値を保証されていた。為替の運賃は二百文であるから、額面金額の二%とわかる。(6)をみると、廿七貫九百五十文とあるが、これは(9)残京著(着)分 百卅九貫五百文、すなわち京都に送られた分の二〇%(二七貫九〇〇文)にきわめて近い。当時年貢米の送付には送る全体石数の四割以上の送料が必要とされた。銭を海上輸送する場合は「海上二分賃」といわれ、二割が送料となるルールだった(佐々木銀弥『日本の商業』)。米はかさばるが、銭はかさばらない。ここでの二割(6)はもともと必要経費たる送料として天引きされる数字であろう。銭の海上輸送経費の名目で控除されたのである。ただしうち千疋(一〇貫文)は為替であった。じっさいの送金方法まではわからないけれど、現実にはより多くの額が為替で送金されていたと推定できる。
 大橋での倉敷費用が四〇石を対象に支給されたのに、山口までの運賃が二〇石分である理由は不明である。これは大野井以外(池尻金国)の分であろうか。大橋倉敷から山口小郡までの送料の詳細も不明である。
 京都平野の米は現物が山口に運ばれる。ここまでは石を単位としていた。そこで銭に換算される。そこで一〇貫を単位とする為替などで京都に送られた。豊前大野井の水田で収穫された米は、京都までは運ばれず、多くが巨大都市・山口で消費された。
 (9)京着分は百三十九貫五百文となるが、さらにそこから「分一」つまり一割の手数料が納入責任者(代官)に支払われて(10)、「定寺納分 百廿五貫五百五十文也」(11)、つまりさきにみた金額が善法寺に納入された。現代に換算すればざっと二〇〇〇万円弱である。
 さてこの正税日記によって、詳細な米や銭の動きはわかるが、それに要した時間はわからない。そこで年貢京送に関わる別の史料をみる。『唐招提寺史料』八幡善法寺文書には、次のように記されている。
 
去十一日御札到来、拝見仕候了、
抑当宮御本地供御卷数送給候、目出候、頂戴信仰異于他候、猶々御意之通畏入候、兼亦大野井庄并池尻金国去年分正税事、示給候、以船便先積出候、京着候者、定自易阿弥方可申入候、不可有無沙汰之儀候、此之由可得御意候、恐惶謹言
「宝徳三 同九月九日到来」
  卯月廿九日    宗国(花押)
 善法寺 侍者上人
 (切封)

 宝徳三年(一四五一)卯月つまり四月一一日に、宗国のもとに到着した「善法寺 侍者上人」からの手紙に対する宗国の返事である。宗国は大内氏の家臣で、豊前国守護代であったと推測される杉伯耆守宗国である。
 杉宗国は以下の文書に登場する。まず宇佐行幸会の際に起きた事件調査を命じた文安五年(一四四八)四月七日の永弘文書は宗国ほか二名の連署奉書である。また宇佐大宮司職に関わる到津文書・享徳二年(一四五三)一二月一五日大内氏奉行人奉書の宛先に杉伯耆守がみえ、それを受けて出された同日の伯耆守遵行状があって、かれの花押の形がわかる。この花押と同じものが文安六年三月一五日や宝徳二年二月二三日の興隆寺文書にみえる。すなわち杉伯耆守宗国は大内氏奉行人で、豊前守護代でもあった。善法寺文書の宗国・花押もこれらと一致し、同一人物と確認できる(写真16)。
 豊前国弥勒寺荘園(善法寺分)は明徳以来大内氏が年貢を請け負っていて、その実務は杉氏や内藤、安富氏があたり、善法寺とさまざまに折衝・交渉していた。この場合の「善法寺 侍者上人」とは善法寺長老のそばに仕える上人という意味である。「当宮御本地供御卷数送給候」と記されている。当宮は八幡宮のことで御本地はその本地仏である善法寺本尊、「御卷数を供える」とあるのは、その本尊に杉宗国からの祈願要請ないしはかれのための祈祷をすることがあって、その祈祷法要を行った証明書(「巻数」、正確には卷数請取)を善法寺が送ったものである。「御意のとおり、かしこみいりました」とあるのは何かの指示があったのだろうが、続いて真の重要案件である大野井荘ならびに池尻金国分の去年分正税について尋ね、催促している。未納になったままの昨年分年貢(正税)はどうなっているのかという詰問であろう。この書状は、それに回答したものである。
 この延滞未納分(正税)は米であろう。池尻金国は見たとおり田川郡である。船便ですでに積み出したとあるように、四月の段階で米の現物を輸送していた。また「九月九日到来」とあとから書き加えられている。四カ月以上もある。九月九日が、もしこの書状が到来した日を記したものとすると、そうした場合は端裏つまり手紙の端の裏側に小さく書くのがふつうで、手紙の本文中に書き込むことは通例ではない。また当時の手紙は、豊前・京都間でも半月で着くはずである。よってこれは年貢が到着した日を記したものと考える。
 宝徳三年、善法寺から宗国への手紙は四月一一日に着いた。四月二九日に返事を書いたが、そのとき既に船便で米は送られた後だった。しかし実際に年貢が京都に着いたのは九月九日であった。遅すぎるが、なぜか。この日付は旧暦(太陰太陽暦)である。これを現在の暦の日付(西暦、グレゴリウス暦)に換算してみよう。四月二九日は西暦一四五一年六月七日、九月九日は西暦一〇月一二日に相当する。米を送ったのは梅雨入りの頃、京都に銭が送られたのは、秋、一部には新米が収穫されている頃であった。このことから梅雨時期に山口にまで運ばれた米が、米のもっとも不足する時期である夏に換金されて京都に送られたと推測できる。品薄になれば高値になる。杉宗国は遅れついでに高値になるまで豊前で米を保管し、さらに山口で最高値になる初秋までに少しずつ換金していった。年貢が遅く運ばれた背景の一つには相場を利用した守護側の利益があったのではないか。