天文帳にみる津熊荘田積の概要

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 『大日本古文書』という東京大学史料編纂所から刊行されている古文書集があり、その中の一冊に「平賀文書」が含まれている。この「平賀文書」のなかの一点、すなわち天文二一年(一五五二)一一月吉日の文書・名寄帳に、行橋市津熊(つのくま)に所在した荘園に関する詳細な記述がある。ただし「豊前国京都郡都濃懸庄」と読まれている。京都郡に都濃懸という地名はない。「都濃熊庄」という文字のうち、「熊」の字を、編者が「懸」に読み誤ったもので、東京大学史料編纂所にある文書の影写本や写真版をみても、字は熊である。文書名は「豊前国京都郡都濃熊庄名寄帳」が正しい。
 平賀文書に津熊荘史料(写)が残った理由は実はよくわからない。平賀一族が津熊荘の所職を有していたからではないかと考えるのが普通だが、他の史料でそれを裏付けることはできない。しかし記述は詳細である。そして書き上げられた地名には、今も小字として使われ続けている地名が多数含まれている。この史料(帳簿)は完全な形では残らなかった。糊がはがれて順序がバラバラになっていたし、一部欠失分もあった。それでもその記述からは、中世後期・津熊荘の状態を、見ることができる。また、それをもとに中世の長峡川流域の姿を考えることもできる。貴重な記述である。
 いったんバラバラになった史料の接続については吟味が必要で、『大日本古文書』の接続順序は入れ替えられる可能性もある。また欠失分の分量の推定なども検討する必要がある。
 
計算上の集計面積相(惣)以上
史料に記された耕地の集計面積
総計(相)38町3段10代四十一町一段三十代
神田1町6反40代一町六反四十代
用坪6反30代九反
屋敷8反25代八反廿五代
永不5町8反……①九町二反……④
永河成(河成)2反30代二反十代
年々不2町4反……②
年不1町…………③

 右のように史料上の数値にはわずかとはいえ、欠損があるので、これを補いつつ考えたい。まず不作田である永不(永久の不作)は、集計である「相(惣)以上」の項をみると、計算上年々不(年々の不作)および年不(その年の不作)をあわせた数値となっている(①+②+③=④)。つまり年々不、年不は言葉こそちがっているが、いずれも集計では永不に同じものとして扱われている。別に河成もある。川になってしまった土地の意味である。
 永不・年々不・年不などは、ふつうの歴史学の知識では、それぞれ永久に不作の田、毎年毎年不作の田、その年のみに不作の田という意味に解釈されるけれども、ここではそうではなく、すべてが永久に不作である田と同義とされている。よってこれを記した帳簿は毎年毎年同じものが使われていて、年ごとの変化(新規作成)はなかったことになるだろう。中世前期には大検注が行われていた。荘園領主の代替わりに行われるため、「代一度の検注」といわれた。一世代つまり二〇年か三〇年に一度の検注(大検注)で定まった数値が、大検注帳に記されて、次の大検注まで毎年使われていた。ただし中世後期になると大検注の実施はほとんどなく、古い帳簿の数値がそのまま引き継がれていたと考えられる。すなわち永不・年々不・年不は固定された数値のまま継承されていた。
 したがってこの史料は天文年間という、中世末期に作成された史料ではあるけれど、書かれている内容には中世後期、場合によっては前期より継承されてきた要素が多分にあった。すなわち中世を一貫してきた様相もうかがい知ることができる。
 これら永久に年貢のかかることのない田のほかには、当該年度のみに不作の田もあり、それは「当不作」(とうふさく)と表現されていた。つまり集計部分をみると、
 
     (前略)
  残テ田数二十町二段廿五代か
   内十一町二段廿五代 当不作
   徳田九町一段廿代現作か
   徳米 已上廿四石か

 
とある。永不(年々不・年不)を除いた残田として計上されたはずの田から、さらにその半分以上が当不作として除外されている。永不・年々不はその箇所(場所)が明記される。しかし当不作については、この帳簿に所在地の記載がない。つまり箇所付けがない。別帳簿(当不作帳、当不作の検注を小検注、また毎年検見という)があって、当不作、つまり当該年度の不作の所在地については、そちらの方に記載されていたことがわかる。