さてこの史料には、引き続きこの年貢米がどこへ、どう運ばれたかが記されている。徳(得)米二四石のうち先例によって定引方、つまり控除された分・四石七斗(約二割)があって、またほかに未進三石もあって、残は一六石強となった。
残チ(テ)十六石三斗 御土貢升也、一升八合ツヽ延
「御土貢升」とあるが、この当時、升は地域によっても、用途によっても異なるものが使われていたため、どの升を使うかを定めている。取る場合と、与える場合とで、つまり用途による差で、升がちがったからである。前者を収納升といい、後者を下行升といった。むろん同じ一升でも前者の升の方が大きく、後者の升の方が小さかった(宝月圭吾『中世量制史の研究』)。ここでは「御土貢升」(年貢収納に際し定められた升)を使ったと明記している。升で量る場合にきっちり入れたつもりでも、実際には目減り分がある(トントンすると量が減ったりするように)。「延(のび)」というのは初めからその減量分を見込んだものである。筵(むしろ)米というものは筵に付着してしまう減分をいう。そういう口実で、初めから多めに収納したのである。そうした一種の加算税・付加税を「延」といった。「一升八合ツヽ延」とあるのは一斗に対して一升八合加算されたという意味で、一六石三斗に一・一八を掛け算すると、たしかに一九石二斗三升(計算ではさらに四合があるが、この四合は切り捨て)となる。
さぬき米十九石弐斗三升か
内壱石七斗舟賃ニミノ嶋藤左衛門尉渡、
内弐斗五升五合ヲ驚(警)固米渡候、
有米十七石弐斗七升五合小郡(周防)着、
内一石六斗五升ハ、ふせん小太郎丸のほせす候、
のほせよと堅申付候、
内弐石五斗七升五合ヲ山口へ上候、此米ノ
代六貫四百廿五文うり候、蔵敷ニ五升渡候、
残チ(テ)十三石、小郡蔵ニ有、蔵敷不移候、
一所四段四十代 光蔵寺領
内壱石七斗舟賃ニミノ嶋藤左衛門尉渡、
内弐斗五升五合ヲ驚(警)固米渡候、
有米十七石弐斗七升五合小郡(周防)着、
内一石六斗五升ハ、ふせん小太郎丸のほせす候、
のほせよと堅申付候、
内弐石五斗七升五合ヲ山口へ上候、此米ノ
代六貫四百廿五文うり候、蔵敷ニ五升渡候、
残チ(テ)十三石、小郡蔵ニ有、蔵敷不移候、
一所四段四十代 光蔵寺領
この一九石二斗三升から蓑島の藤左衛門尉の輸送費、また警固費用が指し引かれて、残の一七石二斗強が小郡(現山口市)に到着したとある。この米は大半の一三石が小郡の蔵に納められたが、一部は売却された。豊前小太郎丸送進分は末進であった。小太郎丸という字が上津熊・恒富八幡宮脇にあり、対応する地名かもしれない。
一三石はこの一一月段階では小郡の蔵に納められた。おそらくは米が値上がりする端境期、七月八月まで保存されたのであろう。
なお倉敷で一七石を保管したことに対し五升を支払っている。大野井荘の場合、四〇石に対し三〇〇文であった。五升はほぼ五〇文に相当するので、この時の山口の保管料はかなり安い。