年貢の行方

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 このようにして不作田が、年貢対象の田からは除外されるので、ひとくちに津熊四〇丁(『宇佐大鏡』に四十町、文明の永弘文書にも四十町)といっても、年貢のかかる田は四分の一、一〇町弱に過ぎなかった。また徳(得)田九町一段強に対して徳(得)米は二四石だった(四斗俵(たわら)として六〇俵分)。一反あたりにすると二斗六升であった。当時の一反は三六〇坪で今の一反三〇〇坪の五分の六であった。当時の一反からは良田で二石(反当五俵)以上、下田でも一石五斗程度が収穫できたと考えられる(若狭国太良庄に二石佃があって、空佃といわれていたことなどからの推定)。二石に対して二斗六升であれば、年貢賦課率は一三%である。一般にいわれる江戸時代の「五公五民」などに比べれば、この年貢額は低額であろう(これ以外に領主・守護などにもまた別に年貢を出さなければならなかったこともあったかもしれない)。
 さてこの史料には、引き続きこの年貢米がどこへ、どう運ばれたかが記されている。徳(得)米二四石のうち先例によって定引方、つまり控除された分・四石七斗(約二割)があって、またほかに未進三石もあって、残は一六石強となった。
 
  残チ(テ)十六石三斗 御土貢升也、一升八合ツヽ延
 
 「御土貢升」とあるが、この当時、升は地域によっても、用途によっても異なるものが使われていたため、どの升を使うかを定めている。取る場合と、与える場合とで、つまり用途による差で、升がちがったからである。前者を収納升といい、後者を下行升といった。むろん同じ一升でも前者の升の方が大きく、後者の升の方が小さかった(宝月圭吾『中世量制史の研究』)。ここでは「御土貢升」(年貢収納に際し定められた升)を使ったと明記している。升で量る場合にきっちり入れたつもりでも、実際には目減り分がある(トントンすると量が減ったりするように)。「延(のび)」というのは初めからその減量分を見込んだものである。筵(むしろ)米というものは筵に付着してしまう減分をいう。そういう口実で、初めから多めに収納したのである。そうした一種の加算税・付加税を「延」といった。「一升八合ツヽ延」とあるのは一斗に対して一升八合加算されたという意味で、一六石三斗に一・一八を掛け算すると、たしかに一九石二斗三升(計算ではさらに四合があるが、この四合は切り捨て)となる。
 
   さぬき米十九石弐斗三升か
   内壱石七斗舟賃ニミノ嶋藤左衛門尉渡、
   内弐斗五升五合ヲ驚(警)固米渡候、
   有米十七石弐斗七升五合小郡(周防)着、
   内一石六斗五升ハ、ふせん小太郎丸のほせす候、
            のほせよと堅申付候、
   内弐石五斗七升五合ヲ山口へ上候、此米ノ
   代六貫四百廿五文うり候、蔵敷ニ五升渡候、
  残チ(テ)十三石、小郡蔵ニ有、蔵敷不移候、
  一所四段四十代   光蔵寺領

 
 この一九石二斗三升から蓑島の藤左衛門尉の輸送費、また警固費用が指し引かれて、残の一七石二斗強が小郡(現山口市)に到着したとある。この米は大半の一三石が小郡の蔵に納められたが、一部は売却された。豊前小太郎丸送進分は末進であった。小太郎丸という字が上津熊・恒富八幡宮脇にあり、対応する地名かもしれない。
 一三石はこの一一月段階では小郡の蔵に納められた。おそらくは米が値上がりする端境期、七月八月まで保存されたのであろう。
 なお倉敷で一七石を保管したことに対し五升を支払っている。大野井荘の場合、四〇石に対し三〇〇文であった。五升はほぼ五〇文に相当するので、この時の山口の保管料はかなり安い。