合 米松名 | ||
一所一町 | 黒木 | |
一所一段 | 池穴 | |
一所六段廿代 | 内一段用弐斗坪 | |
内一段廿代八幡田 | 口か坪 | |
一所二段 | やしき | こかのまへ |
一所二段 | こも町 | |
一所九段 | 永不 | くたか坪 |
已上田数三町廿代 | ||
内九段永不 | ||
内一段廿代御神田 | ||
内二段やしき | ||
内一町五段当不 | ||
徳田三段 | ||
徳米一石 |
合計が三町二〇代というのは記述も計算上も合致する(五〇代で一反だから一代(しろ)は七・二歩である)。「くたか坪」(くちが坪か)の九段分か永不となっている。ほか当不(一町五段)があって、元来は当年(その年)には不作であった田の意味である。当不に箇所付けはない(別帳に記載された)。御神田(八幡田)、屋敷には箇所付けがあり、これらはいずれも課税対象から除外されていた。神田の場合はかわりに神社の祭祀にその収穫米を充てる決まりであった。
さてこのように津熊庄では年貢は米松名のような名を単位として徴税され、納入されていた。名は以下のものがあった。
恒富名、友次名、米松名、安恒名、米本半名、畠中(奥屋敷、実末)、米光半名、宗正名、老薗名、芝原半名、木下半名、小薗半名、桑本名(両人分)
恒富とか安恒とか、響きもよく、語感もよいことばが使われている。仮名(けみょう)といって、本名とは別に縁起のよい名前を名(みょう)に付けた。このうちいくつかが今も地名に残る。まず恒富は恒富八幡宮の名前に同じである。今は津熊の集落との間に長峡川流路があるが、もともとは地続きであった。古川という地名がいくつもあるが、連続するその地名が、中世より前の本来の流路を示しており、かなり蛇行していた(図2参照)。
次に木下は今の中津熊にある小字木の下であろう。小薗はおそらくコソン平田という字のコソンであろう。近くにコソンつまり小薗があったと考えられる。コソンベタとも発音するので小薗辺という意味かもしれない。中津熊の一部の人家は西方平田にかけて、古くからあったらしい。また芝原は長峡川の北に小字があって人家がある。つまり判明する限りでは、今も人家があるような居住適地に、名主の屋敷があった。
次に名の耕地として書き上げられた地名を以下にあげたい。うちその位置が分かるもの(旧小字)に◎を記し、現在の表記を( )内に併記した。△を付したものは類似の地名があるもので、×は該当小字が検出できないものである。
△あふき(大木(おおき)・アフミ) ◎ひゑ田(稗田) ◎六ツおり(六折・ムヅオリ) ◎ゆふ子・ゆふの子(ユウノ子) ◎ゆふ(いふ、イフノ元) △みやノまへ △ミやの脇(宮の本) △あかほり(アカフチ) ◎あくま・悪广鬼(アクマ) ◎柳(柳) ◎平田(平田) ◎水おち(水落) ◎穴田・あな田(穴田) ◎黒木(黒木) ◎口か坪(口ヶ坪) ×こかのまへ ◎こも町(こん町) ◎藤田(フジタ) ◎あれまち・荒町(アレ町) ×かいめくり ◎あら木(あらき) ◎古河(古川) ×みつへ門田 ×同ふる河 ◎いけしり(池尻) ◎もくか本(モンカモト) ◎木ノ町(木ノ町・キノマチ) ◎岩田(岩田・イワタ) ◎門田・かと田(カドタ) ◎あ世村(アセ村・アセムラ) ◎とうの本(堂ノ本、藤ノ本、トヲノ本) ◎かうし(コウジ) ◎しふミ(シブミ) ◎蔵本(蔵ノ本) △池田(池尻、池の口) ◎舞宗(マイガムネ) ×元三田 ×毘沙田 ×敷町 ◎こいて(小出) ◎あかね(アカネ)
写し誤り、読み誤りの可能性があるもの=池穴(池尻か) くたか坪(口が坪か)
※以上小計◎二九 △五 ×七 合計四一
写し誤り、読み誤りの可能性があるもの=池穴(池尻か) くたか坪(口が坪か)
※以上小計◎二九 △五 ×七 合計四一
このように津熊では中世史料に書き上げられた地名(字)四一のうち七割にあたる二九が現存していることを確認できる。類似の地名がある△を加えれば、八三%にあたる三四が中世以来のものである。中世以前から使われ続けてきた地名も多かろう。地名は時代を継承されてきたものであり、案外に変化が少なかった。
さて、次にこうした地名によって、川成や永不などの不良耕地あるいは当時の用坪や屋敷の所在地を知ることができる。中世の村の様子を考える上で、重要な記述だから、くわしく見てみよう。
川成(河成)記載のある地名=水おち(三筆)、同(みつへ門田)、古河、門田
川成は水おち周辺に多かった。水おちという地名の語感からすれば、水が集まるところだったか。現在の津乃熊橋の左右両岸にこの地名が残る。ほか水落地名は上津熊の西方、長峡川対岸、吉国にもある。長峡川流路は不安定だったのだろう。
ところで中世当時の長峡川はどこを流れていたのだろう。旧流路は複数の連続する古川(古河)地名や、また川原あるいは川田地名によって、推定ができる。現在の流路よりははるかに蛇行していた。恒富八幡が上津熊耕地と地続きであったことは既に述べた。ところでこの帳に記された川成には門田、古河が記されている。門田は安養寺の南西に字名がある。ここは北に現河道があり、南にも河道痕跡が認められる。川成になりやすかった。古河地名は長音寺橋(八幡前)の北西から上流に蛇行して連続する。また津乃熊橋の南東にも別の古河(川)地名があって、蛇行して下流に井尻川の合流点にまで連続する。天文年間以前にすでに古河の名称があったから、河道の移動は中世にはあって、旧河道が古河と呼ばれていた。この天文帳の古河がどの位置に該当するのか、確定はむずかしいが、古河は仮に耕地化されても旧河道であるから、川成になりやすかったといえる。
永不記載のある地名=くたが坪、もくか本、かいめぐり、木の町、あせ村、池田、古河、平田
年不・年々不記載のある地名=平田、しふみ、敷町、かいめぐり
年不・年々不記載のある地名=平田、しふみ、敷町、かいめぐり
永不、年不、年々不は津熊の条里水田にまんべんなく分散している。古河二〇代のように小規模で、川成に準じるようなものもあるが、多くは中津熊南西に固まっていて、一筆が一丁ないし九反といった面積の大きなものが多い。なぜこうした水田が不作田として認定されたのか、その事情はわからない。あるいは機械的に不作田を割り当てたものであろうか。
用(用坪)記載のある地名=みやのまへ、口が坪、みつへ門田、門田、悪ま鬼、あな田(三筆)、こも町
用(よう)、用坪とある。用とは用作、御用などにおなじく、領主の用であろう。みつへ門田、門田に用が所在しているから、名主の用として認定されたのかもしれない。面積は全体に小規模で、一段が四筆、二五代が四筆、三〇代が一筆となっている。斗代も面積によって異なっているが、一反は二斗代、二五代は一斗または二斗代、三〇代は一斗二升代となっていて、面積にそのまま対応してはいない。各名に均等に用が割り当てられているわけでもない。
神田記載のある地名=口が坪(八幡田)、こも町(流鏑馬御神田)、水おち、こうし、ゆふ子(彼岸祭)、穴田、池尻(八幡灯明田)、元三田(大歳夜祭)、毘沙田(正月七日御弓始)、こいて(正月十五日祭)
神田(じんでん・かんだ)それぞれの面積は一反が七筆ともっとも多く、一反二〇代が三筆、二反および二〇代が各一筆で、ほか詳細不明が三反ある。神社の祭礼のための費用を負担する田は、面積が広かった。
神田には庄鎮守・恒富八幡社に関わるものが多く、八幡田、八幡灯明田とある。単に神田とのみあるものも、多くは八幡社であろう。正月七日御弓始、正月十五日祭、流鏑馬御神田、彼岸祭も八幡社関係であろう。御弓始のための田は毘沙田(ビシャデン)とよばれている。騎射に対し、かち弓、すなわち馬に乗らずに射る弓を歩射(ビシャ・ブシャ、おビシャ)といった。武神・毘沙門天のイメージで歩射田を毘沙田と記してはいるが、歩射の意味である。弓は悪霊をはらい結界をむすぶ上で必需であった。
元三田は正月三日の行事であろうが、大歳夜祭とあるので、八幡の祭りとは別だと考える。
八幡社は八月一五日(旧暦)に大祭がある。流鏑馬はその大祭で行われた。流鏑馬神田が津熊の中にあったことがわかるが、今遺称地名はない。しかし延永にヤフサミという字がある。また隣接地域をみると旧仲津郡上原にヤブサメ、旧京都郡南原にヤブサミ(薮佐見)、同上黒田に薮雨(ヤブサメ)という地名がある。薮雨はむろん宛字である。もともと中世にはヤブサミ、ヤグサミに近い発音だったらしく、「神幸矢くさみ仕り候」(『防長寺社由来』上保木村妙見宮の項)、「両度祭礼のやくさみの馬」(『粉河町史』鞆淵八幡神社文書)と文字表記されることもある。流鏑馬と書いてヤブサミと発音する地域もあるし(山口県熊毛郡平生町大野)、ヤグサミ(矢具佐見田)地名や、ヤブサン田(薮散田、薮算田)地名も多い(同宇部市東須恵、福岡県金田町、静岡県沼津市大岡、兵庫県小野市ほか)。あまねく神社の祭祀として流鏑馬が行われていた。
屋敷記載のある地名=こかのまへ、平田(ほか二カ所は地名記載を欠く)
屋敷が書き上げられたのはこの四筆しかない。およそ一反か二反である。元来名には名主屋敷があり、下人が住む脇在家もあったが、それは自明のこととしてこの帳には書かれていない。名主屋敷は年貢が免除されていた。記されなかった他の屋敷の多くももともと名に付属するものとして年貢は免除されていたであろう。
さて津熊一帯は典型的な条里制がしかれていた。田地のなかには一町を単位とするものが
あふき、ゆふ、あくま、柳、平田(三筆、三町分)、黒木、藤田、かいめぐり(三筆、三町分)、もくが本(二筆、二町分)、木ノ町、岩田、あせ村、舞宗、敷町、黒木、あかね
とあって、総計一六字、二一町分ある。かいめぐりの位置が不明なのは残念だが、平田、もくが本(もんが本)などは二町以上に及んで広い。現在の字図と比較すれば明瞭なように、右天文帳の表記は、現在の耕地・字にみごとなまでに対応する。津熊の住人は条里制が施行された奈良平安時代以来、こうした耕地に依拠して生活を維持してきた。むろん奈良平安時代には水利施設は未発達で、水田化か不十分なため、畑地も多かった。
津熊周囲に「あさみ」(呰見)や「いさやま」(諫山)のような豊前各地の地名のついた字もある。そうした村に関連した耕地であったとすれば、津熊のすべてが一円に宇佐宮領であったわけではなく、他領の飛地があったことも考えられる。
また検出した地名には津熊に接するものの、現在では下検地(しもけんじ)など隣接する村の領域になっているものがあった(池尻など)。中世の庄域と、近世以降の村界は必ずしも一致せず、出入りがあって、近世初頭の村切りで現在の村界が決定された。
津熊の用水はやはり大野井を経由してくる今川用水であるが、現在上津熊では前田大池の水を長狭川にある友貞井堰を経て利用する。この池は幕末にできた池で、四対六で吉国と下検地・上津熊に分水し、さらに後者をおよそ一日半と一日に分水(時間給水)している。前田大池築造以前には川水・池水を利用した時期もあったのではなかろうか。
上検地に池の口、向池の口、上検地および下検地に池の尻、玉が池といった池の地名があり、また天文帳にもいけしり、池田といった地名がある。このことは、中世には溜池があって、それに依拠した水田もあったことを示唆している。池は前田大池の新築によって廃止されたのであろう。
聞き取り調査=堤信太郎(明治三六年生まれ)、津村忠男(大正一四年生まれ)、末松正義夫人、北田庄司(昭和一一年生まれ)-以上調査は昭和六一年頃実施、平成一七年に津村、北田から再聞き取り、ほか崎田義雄(昭和四年生まれ)、塚本一生(昭和一八年生まれ)各氏より