六 入覚・別所の現地を歩く

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 入覚、すなわち入学ないし入学寺については古文書に散見されるから、その沿革や伝領の過程がいくぶんわかる。
 建久年間(一一九〇~九九)、あるいは永仁五年(一二九七)、また元応元年(一三一九)などの古文書に弥勒寺喜多院領入学寺あるいは入学寺五十丁と見える。弘安二年(一二七九)十二月廿八日将軍家政所下文(川瀬氏所蔵文書)によれば、豊前国入学寺の代わりとして筑後国田口村地頭職が田原泰広に与えられている。建武元年(一三三四)には石清水八幡宮護国寺が地頭職を得(善法寺文書)、文亀元年(一五〇一)の田原文書・大友親治預ケ状では「入学之内二十丁」が田原千代若丸に預け置かれている。弘治二年(一五五六)三月には合戦にともなって放火される事件があった(杉重昌書状写・『大友家文書録』)。このような史料が残され、沿革のおおよそはわかるが、具体的な人々の生活を知りうる文献史料は残されていない。しかし現地のさまざまな記憶には中世のイメージを復原できる手がかりが残されている。
 入覚の中に別所という地区がある。背後の七つ森に関わる祭祀があった。「みょうけん」祭りである。
 
 明見さま。九月二七日に新米を供える。入覚全部じゃなくて別所だけ。いまが一四軒になっているけど、あのころは二〇何軒あった。おすぼ。長い新わらにご飯を包んで、なんていうか、お握りのなーがい、菱形。いまのトウキビみたいなかたちで、わらに包む。新わらの香りがしておいしかった。 
 (その日に七つ森でおまつり)七つ森は上に社、途中に十三仏がある。番号が一から一三、順番にお供え。神様は女性とお酒が嫌い。酒は飲まない。 
 (ミョウケンという)文字は仏様みたいだけど神様。明見寺の住職はついてあがる。浄土宗の西山派、粟生の光明寺が本山と聞いている。 
 朝、係じゃない人が朝八時頃出発しおみちきり、草切り、十三仏のまわりを掃除しながら頂上の社につく。一〇時半ぐらいまでかかる。係の者は三軒、ご飯を炊いて、十三仏全部にお供えし、昼ご飯を持ってあがる。一一時頃、お詣りの後、みなで食事をする。(おすぼ)男しか登れん。 
 うちのすぐそこに宮田があった。ジンデン(神田)でゴクデン(御供田)っていった。御供田は全部で三反。反当六俵で、一八俵ぐらいとれる。作るときはみんな共同で作った。まつりには半分どころか一俵もつかわん。九月二〇日頃(祭りの一週間ほど前に)ワセの植えてある五畝ばかりを刈り取る。一俵ぐらい少なかった。早稲やけねぇ。御供田はワセ品種、収量は少ない。昔九月二〇日頃収穫できる稲を作っていた。早くできることはすばらしいと思った。 
(奥さん)日本晴れじゃなかった? きてからは日本晴れしか覚えがないねぇ。 
(ご主人)あのころはまだその品種はなかった。品種の名前はおぼえん。 
 --隣同士にワセと別の品種を植えたら交配しませんか。 
 いくらかでるけど、まちが小さいまちばっかり。区画は別に植えてある。いまは九月二七日が休みじゃない。九月の日曜日に決めています。御供田は農地解放で売った。初めのうちはまつりに使う分だけは(買った人、当時の耕作者が)作るという話になっていたけど(続かなかった)、いまは個人で米を用意しなければならない。ふつうの田は、ワセは植えてない。ふつうは一〇月一〇日ぐらいが本当の収穫期。新暦九月二七日、ずーっとは(田の全部からはまだ)新米がとれない。一升ぐらいすこぐ。畔側の一列、畔側が、日当たりがいいから熟れる。一軒から一升持ち寄り、すこいで持っていく。個人で一升ずつ、もみの熟れかかったのを持ってきた。二〇戸だから二斗ぐらい。そのうち二、三升(一〇分の一ほど)を炊く。 
 御供田の稲は(三反)全部がその品種(ワセ)じゃない。(五畝以外は)ふつうの品種を植え付けとった。ごはん、白ご飯も作った。四~五〇年も前のこと。 
 種籾を伝えてきた。五畝からとれる三俵(一石二斗)のうち、炊くのは二升ぐらい。あとは籾のまま保存したり、あとから稲刈りしたり(全部をまつりで食べたわけではない)。種は袋に入れて高いところに入れた。つるしておいたらネズミはこん。桁の上においとったらもうくる。種籾、だいぶよけいにとりますよ。手まきで播いて苗代作りをしていた。 
 ほんとうのこというとたいへんでしたよ。(御供田米は)もみすりから始まる。
-和田豊治氏(昭和八年生まれ)、ご夫妻より-

 七つ森「みょうけん」には御供田があって、青田の一部を収穫して、九月二七日に七つ森の山頂でまつりをする。御供田に植えられているのは早稲である。今では早生は九月に収穫されるが、当時はもっと遅かった。同様に晩稲は、もとは一一月末に収穫した。今は一一月初旬の収穫と早くなっている。
 御供田三反のうち早生を植える五畝ほどの一部で、田全体の完熟は待たずに、九月末段階で、すでに熟しかかっている稲穂だけを選んで収穫する。収穫米一斗のうち、二、三升をご飯に炊いてまつりに使い、残り七、八斗を種籾として保存し共同管理した。
 現代は一枚の田の米全部を一度に稲刈りするが、御供田では一部の実っている米だけを収穫した。同じ品種の種籾を蒔き、田植えをしても一枚の田には早熟、晩熟があって、立っている穂もあれば、頭を垂れている稲もあった。よく弥生時代の稲刈りは穂首刈りであったといわれる。根から刈るのではなく、熟した稲のみを選択して、石包丁で順次、穂(穂首)のみを刈ったといわれている。御供田でも同様の作業が行われた。早生種のなかでもさらに早生である稲のみを刈り、一部は祭祀に使うが、大半は種籾として保存した。これは早生種の確保という意味があったのであろう。くりかえし早生のものを選択し続けることが、品種改良であった。
 早稲(早生)は中世和歌の世界では門田に植えられるものとされている。すでに『万葉集』に以下のようにみえる。
 
たちばなを守部の里の門田早稲 苅る時過ぎぬ 不来(こじ)とすらしも

 鎌倉時代の歌に
 
夏と秋とゆきあひの早稲のほのぼのとあくる門田の風ぞ身にしむ二條爲忠
山ざとは門田のいなば見わたせば 一ほ出でたる夏のあさ露藤原家隆
宝治百首歌たてまつる時秋田を前内大臣基□
夕日さす門田の秋のいな筵 わさほ(早生穂)かりしき 今やほ(干)すらむ

とあるように、夏と秋の「いきあい」の時期、つまり立秋(太陽暦の八月七または八日頃)、最初の秋風が吹くころに、門田に植えられた早稲から待望のひと穂が出る。早稲と門田は一体のもので、他の田に先がけて黄金色に変わり行く門田は、夏と秋の「いきあい」の掛詞として、男女の「行き会い」を引き出す場景として読まれた。
 門田は領主屋敷の前の田で、水の管理がしやすかった。おそらく産土神の御供田も同様の役割をはたしたのであろう。
 
かたをかの もりのこの葉(森の木の葉)もいろづきぬ わさだの おしね(晩稲) いまやからまし
右衛門督為家

 ところが早稲を植える早稲田(わさだ)にも晩稲(おしね)があった。奇異である。早稲田ならば早生種が栽培されていたはずだが、おおかたの稲を刈ったあとに、わびしく残った最後の稲を「刈らまし」(収穫しよう)としていて、その場景を歌った。今のように一斉に根元で刈るのではなく、熟した穂のみを刈ったと推定できる。早稲品種を田植えしたその田にさえ晩稲が残っていた。入覚・別所の御供田に想定したような、毎年毎年、早生品種のみを選択して保存し栽培していくことが品種改良であり、その過程を示す歌といえるだろう。早生は晩稲と比較すると収量が少ない。それにもかかわらず早生が必要とされたのは、第一には端境期の米不足の解消があるが、より重要なこととして、完熟時期を少しずつずらすことにより、台風や虫害など天候不順や災害に備えることができた。
 別所では旱魃の記憶も聞くことができた。
 
 うちの田はすいさつばる(水札原、通称ケリ、ケリバルともいう)の方にあった。水札原に昔からある大きな池や、でみ(出水)がある。池のしみが出よった。それで田植えはできる。日照りで、池がなくなりゃー、なんじゅっ回にいっぺんは旱魃になる。平成六年は平気だった。うい(おい)たちが若いとき、旱魃がありよった。 
 雨乞いはしたよ。山の上、七つ森でゴマたきをした。お神さん、まつったるよ、ちょっと社がある。山へよせてゴマ焚き、何十年になるかなあ、六〇年、そうなろうなあ。入覚全部、上(あが)ったよ。蓑島に潮汲み。 
 --降ったんですか。 
 おぼえんばい、飛行機のあれ(人工降雨)と一緒で、少しは降る(大きなたき火による急激な上昇気流と、煙のすすがコアになって少量の降雨となる)。 
 --できない田はどうなるんですか。 
 青いまま刈ったよ、穂が出らんで、牛・馬のえさ。豆を植えたりはしなかった。あきらめる。一回あったよ、記憶はある。池が干(ひ)るからそうなる。ここは池が干いたらおしまいよ。 
 この池(いのさこ池)も、何十年か前には干いたよ。どうかこうか水はまわす。時間でやった。一反の田に何時から何時まで。半分か、なんぼかはできる、そうこうするうちに雨が降るよ。ここは山やからねえ。一〇日か二〇日すりゃー雨が降る。池があるから持てる。降ったらお礼に下のお宮さんにまいる。病人と一緒、悪なりゃー頼む。 
 (不作は)全部じゃないけぇ、(同じ一枚の田でも外側の)畦の方から乾いてくる。(内側、となりの)上の田の下は簡単には乾かん。全部不作になったらたいへんなこと、首くくらにゃーならん。どっかはでくるさ。雨が一カ月のうえ、なからにゃーねぇ。空になるまで(池水を)廻す。夏の土用、(最後の水を抜く前に)魚をあげる。夜に干すけど夏にあげた魚はすぐに死んでしまう。魚が主か、人間が主か。ふつうは一一月いっぱい田に稲がある。いまは稲が早い。一一月八日、それから干しよった。寒いけぇ死なん。魚の権利は入札で落とす。 
-畑中稔氏(大正一二年生まれ)より-

 近代のように溜池が多く設置されても旱魃はあった。それらがほとんど整備されていない時代・前近代には、旱魃は頻発した。さきに津熊庄史料に即して、永不、年不、年々不、当不を検討した。永不、年不、年々不は恒常的な年貢免除が認められていたが、当不は毎年認定を受けるものだった。耕作者は不作と主張し、領主側が不作と認めないケースは多くあったであろう。中世には順調な年、豊作の年の方が稀にしかなく、何らかのかたちで毎年自然災害の影響を受けていた。今では記憶されていない絶望的な旱魃・飢饉も頻繁にやってきたであろう。
 お話のように、旱魃・不作といっても、同じ田一枚においてでさえ、被害を受ける稲と助かる稲があった。村の中全体では被害が甚大な田と、わずかな被害ですむ田とが入り交じっていただろう。できるだけ湿田乾田をとりまぜて、さまざまなタイプの耕地を保有する。作付けする品種もさまざまなものを植え付けて、台風や虫害によって、作物が全滅することを防ぐ必要があった。米のほかに麦・蕎麦・稗・粟など五穀が栽培され、米も収穫時期を異にする早・中・晩の稲を植えておく必要があった。全天候型・全気象型の農業が必要とされた。
 平常多量を収穫できる田は乾田であるから、領主はこうした田を手作田、つまり用作・正作にした。しかし未熟な土木・水利技術であったから、旱魃時には被害を受けやすかった。
 さて入覚・別所での聞き取り成果を中世村落像に反映させるために、用作地名の残る地域を訪ねてみたい。すでに大野井のツクダに関して言及したが、稗田・津留(前田)には用尺地名がある。