稗田や津留(前田)の字・用尺は領主水田である用作田の所在地であった。明治一五年小字名調に下稗田及び前田の双方に小字・用尺が記されている。前田は明治になって下稗田から分村した村で、境界も入組んでいる。両村に共通の字名が用尺以外にも金付(かねつけ)免、五月、五反田、八反田、郷田堀など多数みられるが、いずれも本来は一つの字名であったものが、分村の結果両村に属すことになったと思われる地名である。用尺は下稗田と前田の中間、長峡川左岸の小丘陵にある迫の中の水田である。この迫にはカネツケ免、御用、セガキ田、クズマキ、五反田、用尺などがある。上部にあるカネツケ免は浅いところで膝、深くて腿(もも)までもぐり、「ただくれても作りたあない」深田であった。
一方用尺はこの迫の最下部、集落に接したところにあり、湿田、じるい田ではあるが、耕運機も入り、戦前の反収を比較すればカネツケ免の水田は反当二俵半、一方用尺はできて四俵、ふつう三~四俵であったという。一方、対岸長峡川右岸平坦地は、谷水田とは異なり、四俵半ほどはとれていた。この谷に隣接して前田大池がある。末松七右衛門(謙澄父)により幕末に築造された。その造成にあたっては、このカネツケ免の谷も池の候補地にあがっていたと伝承されている。現在、このカネツケ免から用尺につながる迫は、一帯で唯一溜池のない迫であるが、溜池の造成も考えられるほど、水が豊富である。その下流部にあって、極端な湿田でもない。安定した収量が期待できた田が用作として選ばれたといえよう。
聞き取り調査=有松新男氏(明治三五年生まれ、下稗田)、末松六一氏(明治四一年生まれ、前田)より
この調査は昭和六一年頃に行った。