2 史料と地名の舞童田

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 稗田は久保荘に属したとする史料(天文十二年四月十六日・恵良文書)と、吉田荘に属したとする史料(天文六年九月十二日・本間文書)がある。稗田・用尺の南には春日田という字名がある。先に天生田に春日神社があることを、荘園領主宇佐社との関係で考えてみたが(一五三頁)、ここも宇佐社(摂関家)とのつながりのある時期があったか。
 久保荘に関して次の史料がある。
 
〔興隆寺文書〕
寄進 興隆寺
 豊前国久保庄内号舞童田事
右為毎年二月会舞童料所、々令寄付也、守先例、可被致所務之状如件
  明徳元年五月十日   左京権大夫(花押(大内義弘))

 興隆寺にて二月会でおこなう舞童(舞児)のための料所は、周防・長門にもあったが(興隆寺文書・明徳四年八月廿五日大内義弘袖判条書・舞童料所)、不足がちのようで、豊前のこの地にも設定されていた。
 地名で見ると天生田に小字武道田が残っている。各地に舞童料田が設定されていたことを物語る(もしこれが興隆寺舞童料田に該当するのなら、久保荘は近世天生田村の一部にまで及んでいたことになる。大野井荘と同様に、郡境をはさむ仲津郡側にも所在したか)。永仁三年(一二九五)紀伊国太田郷の事例によれば、舞童田は荘内に五カ所程散在するものだった(『鎌倉遺文』一八七八四号)。村には、遠く周防地域のための田が設定されていた。