久保荘に関して次の史料がある。
〔興隆寺文書〕
寄進 興隆寺
豊前国久保庄内号舞童田事
右為毎年二月会舞童料所、々令寄付也、守先例、可被致所務之状如件
明徳元年五月十日 左京権大夫(花押(大内義弘))
寄進 興隆寺
豊前国久保庄内号舞童田事
右為毎年二月会舞童料所、々令寄付也、守先例、可被致所務之状如件
明徳元年五月十日 左京権大夫(花押(大内義弘))
興隆寺にて二月会でおこなう舞童(舞児)のための料所は、周防・長門にもあったが(興隆寺文書・明徳四年八月廿五日大内義弘袖判条書・舞童料所)、不足がちのようで、豊前のこの地にも設定されていた。
地名で見ると天生田に小字武道田が残っている。各地に舞童料田が設定されていたことを物語る(もしこれが興隆寺舞童料田に該当するのなら、久保荘は近世天生田村の一部にまで及んでいたことになる。大野井荘と同様に、郡境をはさむ仲津郡側にも所在したか)。永仁三年(一二九五)紀伊国太田郷の事例によれば、舞童田は荘内に五カ所程散在するものだった(『鎌倉遺文』一八七八四号)。村には、遠く周防地域のための田が設定されていた。