近世から近代にわたる干拓事業によって、長峡川・今川・祓川の河口は埋め立てが進み、蓑島(みのしま)まで陸続きになっている。しかし中世段階においては、海岸線は遙か内陸に位置し、行事(ぎょうじ)・大橋(おおはし)・今井(いまい)・元永(もとなが)を弧状につなぐ形で内湾を形成していた。この湾は蓑島によって外海の風雨から隔てられ、風待ち・荷待ちの良港として発達を遂げたのである。瀬戸内海航路の重要な結節点であると同時に、京都平野を貫流する諸河川の河口を占めることで、陸と海を結ぶ機能をもっていた。とりわけ今川・祓川を介して豊前国衙と直結し、国衙の外港として機能していたことは、この湾を考える上で非常に大きなポイントになる。長峡川流域に宇佐宮(うさぐう)領・弥勒寺(みろくじ)領が展開したこと、港湾の内陸一帯に北条氏が進出したこと、中世後期の動乱においては同湾が諸勢力の角逐の場となったことは、交通という視点を抜きに語ることはできない。本節では京都平野の豊かな歴史を生み出す原動力となった港湾に注目し、ここに成立した都市的な場、そこに生きた人々の文化を読みとっていくことにしたい。