大橋太郎と大橋

183 ~ 183 / 898ページ
 長峡川河口部に成立した大橋は、古代に発展した草野津を引き継ぐ形で古くより発達を遂げたものと推定される。長峡川による沖積作用の結果、海岸線が進むことで、港湾も次第に移動したのだろう。京都郡と仲津郡の境界に、中世の初頭には河川を軸に都市的な場が成立していたのである。
 大橋には都市生成譚として大橋太郎(おおはしたろう)の伝承がある。鎌倉時代に豊後国某所の地頭であった大橋太郎が、無実の罪を許されて鎌倉から豊後に帰る道すがら、この地を気に入り住み着いたことから町が生まれ、太郎の姓にちなんで大橋と呼ばれるようになったという(「豊橋柱」『京都郡誌』所収)。豊後や鎌倉といった遠隔地との繋がりを持った構成となっており、交通を担う港湾にふさわしい伝承といえるだろう。
 文書史料の上で初めて大橋が現れるのは、鎌倉時代の後期である。城井(きい)に本拠を据える宇都宮頼房(うつのみやよりふさ)が、正応四年(一二九一)に拝領した所領のうちに大橋が見えている(同年一〇月「宇都宮尊覚給地覚」宇都宮作治氏所蔵文書)。しかしながらその後同氏に相伝された形跡はなく、どれだけ実態を伴うものであったのか判然としない。南北朝期に宇都宮氏は今井津(いまいつ)のうち元永(もとなが)を抑える動きを見せているが、大橋については明らかではない。港湾として早くから機能していたと思われるものの、大橋は今井津に比べ史料に乏しく、中世前期の状況については、発掘成果など今後の研究を待たねばならない。