次に大橋が史料に見えるのは一五世紀の末まで下ってしまう。明応四年(一四九五)秋、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)内の善法律寺(ぜんぽうりつじ)は、大野井荘など豊前国内の所領五カ所の年貢銭の動きについて、その詳細を書き留めている(「善法寺領五ヶ所正税所納日記」唐招提寺所蔵八幡善法寺文書)。この帳簿によると大橋には倉敷があり、所領荘園から集めた年貢米のうち四〇石分をここに保管していたとある。長峡川や小波瀬川を利用した水運によって搬送された米を一時保管し、相場を見極めて換金していたのだろう。蔵には三〇〇文が支払われている。河川と海の結節点として、大橋にはこうした経営をする問屋が営まれていたのであり、それは近世にも引き継がれてゆく。小倉藩は同地に御蔵所を設けており、近世を通じて物資の集積地として機能するのである。
そののち大橋には企救郡の有力武士麻生(あそう)氏や(天文一九年一〇月一六日「大府宣案」麻生文書)、大内氏の有力被官右田(みぎた)氏などが給地を得ているが(弘治二年四月一三日「大友義長宛行状写」右田文書)、大橋全体にどれほどの影響力を持っていたのか不明である。
戦国期に入ると伊勢信仰の普及につとめた御師(おし)の記録に大橋の人々が登場する。彼等は全国を回って檀那と呼ばれる信者を獲得し、幣料の取り次ぎなどを行っていたのである。そうした御師のひとり橋村(はしむら)氏が作成した檀那帳には、永禄七年(一五六四)分の大橋の檀那として、岩武勘兵衛・岩武(いわたけ)備後守(就豊(なりとよ)か)・広津(ひろつ)左衛門尉・馬左助の四名を挙げている(「伊勢神宮御師橋村氏御祓賦帳」、神宮文庫所蔵)。このうち岩武氏は毛利(もうり)の被官として松山城の防衛に当たっていたことが確認される一族で、その居宅は大橋にあったと見てよいだろう。広津氏は上毛郡の有力武士で、岩武同様に毛利配下にあったものと推測される。この年、今井津にあって橋村氏の檀那となっていたのは二名に止まっているから、大橋の規模は毛利と結びつくことで、それを凌ぐものになっていたと予想される。また毛利氏が豊前から撤収し、大友氏の支配が進んでいた元亀元年(一五七〇)分の帳簿にも、岩武氏と広津氏が大橋分として記されている。大友氏は港湾を抑える有力者をそのまま引き留めることで、当地の流通・交易の機能を維持しようとしたのであろうか。上部権力の変転にもかかわらず彼らが当地に止まっていたことは大変興味深い事実である。
しかしながら天正一四年(一五八六)分の檀那帳になると様相は一変する。岩武氏・広津氏の姿は消え、大橋は藤二郎ただ一人になってしまうのである。今井津がこの年一四名の檀那を擁しているのに対し、大橋の様相は極めて異様である。他の御師が入ったことで橋村氏が排除されてしまったと見ることも不可能ではないが、大橋に何らかの変化があったものと見る方が自然だろう。その理由に該当するかも知れないのが、天正七年(一五七九)初めに起きた大友氏と毛利氏の合戦である。毛利を裏切り大友についた杉重良(すぎしげよし)は、周防を逃れ蓑島に拠った。これを、反大友方の高橋鑑実(たかはしあきざね)・長野助守(ながのすけもり)が襲って合戦となり、杉氏を援助する田原親宏(たわらちかひろ)も加わって大橋一帯が戦場となったのである(同年三月七日「大友円斎書状」入江文書)。岩武・広津はもとより毛利方であったから、この合戦に関わって大友方に逐われてしまった可能性が高い。いずれにせよ天正年間に大橋の機能は、今井津に比べ相対的に著しく低下してしまったと考えられるのである。
こののち近世初頭に至るまで大橋がどのような歴史をたどったのか史料からは明確にならない。しかしその間に大橋は確実に旧勢を取り戻すことに成功したようであり、小倉藩の経済を左右する港湾都市として近世を通じて発展を遂げていくのである。