今川と祓川の河口一帯を併せた地域を、中世においては今井津(いまいつ)と呼称していた。現在の今井に加え、金屋(かなや)・真菰(まこも)・元永・沓尾(くつお)・蓑島を含む内湾に沿った地域を指す名称である。古代に利用された草野津や、その伝統を引き継いだ大橋にくらべると、今井津の発達は少し遅れ、中世に入ってから本格化したものと推測される。
今井津の成立を考える上で注目すべき存在は、元永に鎮座する須佐(すさ)神社である。建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、奇稲田比売命(くしいなだひめのみこと)、八王子命(はちおうじのみこと)の三神を祀る同社は、今井津祇園(ぎおん)神社とも呼ばれて今井津一帯の崇敬を集めるとともに、豊前北部にも広い信仰圏を有している。こうしたあり方は、同社の発展が、今井津の築いた商圏の広がりと符合するものであったことを示していると言えるだろう。
さて同社の創建については三つの説が伝えられている。現在須佐社は元永の鎮守である大祖(たいそ)大神社と境内を共しているが、いずれの説も初めは今とは別の地に創建されたとし、後に遷座したことを伝えている。三説のうち最も創建年代が遡るのは、元慶七年(八八三)に京都の祇園社から金屋へと勧請されたとするものである。この説では延長八年(九三〇)に至り、金屋から元永へ遷座したとしている(「祇園三社天王勧請記」小山田文書)。次ぎが昌泰三年(九〇〇)創建説で、中良身という人物が今井に垂迹降神させたのち、延長八年に元永へ遷ったとしている(「神社明細帳」『京都郡誌』所収)。この二説に比べて時代が下るのが建長六年(一二五四)説で、今井津の地頭福嶋(ふくしま)・村上(むらかみ)両氏が京都から今井へと勧請したとする。遷座については、天正年間の大友氏による兵乱に求め、その難を避けるために元永へ遷ったと伝えている(「祗園社勧請伝記」末次文書)。この三説の可否を論ずることは難しいが、今井津の古代に遡る傍証が見出せない現状においては、具体的な記述が見える建長説をとり、同津の展開を鎌倉中期からと見ておくことが最も妥当と思われる。